耐えて堪えて神々の頂点へ。    大国主の尊は頑張り抜いた神
                   
大黒様は苦労人  いじめに負けず大神へ




大黒様のエピソードは出雲の神々の中で最も広く知られています。大きな袋を担ぎ、兄神の後を歩いているときに、赤裸のウサギに出会い、治療法を教えたり、困った人を助けたり。何度か抹殺されようになりながら、見事に蘇り、出雲大社に祀られて居ます。

出雲には神無月がありません。日本全国から神々が集まってくるからです。各地の神社は神様が不在なの?の疑問は起こるけれど、神無月の呼び名で納得するしかありません。

一旦死んだはずの大国主は、蘇ります。巨大な焼けた岩に押しつぶされたという場所に行ってみたら神社があります。昔話の起源となったと思える神話が出てきます。お楽しみください。そして祖先たちの豊かな想像・創作力に拍手です。
 神々、神社、旧跡にリンク


18)お酒の神様  17出雲大社 16)塩味ぜんざい 15)神々大集合  14)神代の昔、熊野

13)大追跡  12)国譲り開始  11)中々譲らない  10)夢を誘う  9)ドジョウ掬い 8) 八重垣

7)須我神社   6)去る神、来る神  5)国づくり  4)あの世との境坂

2)白うさぎ  3) 赤イノシシ

 1)神話と大山

 
  

   18)お酒の神様。   180日も飲み続けたそうです

 神様が出雲大社に集まり、話し合った後に佐田神社へ移り、そこでも行事を行うことが分かりました。佐田神社は出雲大社より古いと言う話しもあり、大国主命の神話よりもまえからこの神社は、神様が集まったのかもし得ません。専門的なことは学者に譲りますが、集まった神様が酒盛りをする神社があります。佐香(さか)神社=松尾神社=で、出雲市小境町の国道から1㌔ほど入ったところにあります。




 何でも集まる神様は180柱にもなり、家を建てて酒を醸造し、180日間も酒盛りをしたというのです。今ではそれが「どぶろく祭」として伝わり、一定量のどぶろくを造るのは国税庁も認めていて、10月13日のお祭りには、どぶろくが参拝者に振る舞われます。酒の神様なので酒造関係者、それに醸造に関わる人々の信仰を集めていると言うことです。

 京都の松尾神社とも関係があり、酒好きならちょっと立ち寄り、お参りしたらいいでしょう。私は7,8年前に一度お参りし、今度もお参りしたので、ご利益たっぷり。毎日飲む酒がとてもおいしいのです。

 神社にはかなり急な階段があります。酔っぱらった神様が転がり落ちなければいいが、などと余計なことも考えてしまうのです。
「自分の足つきを見てから人の心配をしなさい」
こんな声が聞こえました。から耳でしょうか。それとも神の声?

 
            17) 出雲大社  

 そろそろ出雲大社を登場させないといけないでしょう。出雲には神々の鎮座する社が沢山あり、素人には到底、どこがどこやら分かりません。それでも、何となく大国主命が国譲りし、出雲大社へ鎮座するまでの足跡をたどって見たのです。沢山の学者が、沢山の説を唱えています。古事記、日本書紀、出雲国風土記…。こういう記録を元に説が唱えられるのですが、アマテラスは蛇で天から山を下り、川に入り、五十鈴川の霊となり、巫女に掬われて一夜をともにする―。牽牛織女の星物語と共通する説もあります。

 神話や伝説はどこまで分析すべきなのか。論理的に合わないのは当たり前で、神の存在自体、偉そうにアマテラスは蛇だった、などと言う学者も、神とは何か、どういう働きをするのか、などと聞かれるとお手上げでしょう。其のアマテラス一族に国を譲ったのが大国主命です。参殿、本殿へと延びる、広い道の両側には昔ながらの店があり、見事な門前町を作っています。ゆるりとした坂道をたどると「出雲大社」の大きな石柱のある鳥居に着きます。鳥居を潜ると樹木の覆い被さるように繁った参道です。

 緩い坂を下ると松林です。参道は真っ直ぐに続きますが、参拝者は左右の舗装路に分かれて歩きます。左側に広場があり、大昔、出雲大社が巨大な建物だったことを示す3本組みの柱が、一本だけ立てられています。写真で示しますが、本殿前の広場にその柱の跡が、綺麗に描かれています。大きな神殿を作って祀れ―、と言った大国主命の言葉は、言い伝えられている通りだったのです。これも神話の不思議で、見つかった柱の束は大国主命が鎮座した当時のものではなく、60年ごとに建て替えられる中で、社殿は小さくなったのかも知れません。

 祈る大国主命の像や兎に手をさしのべる像などもあり、神話と一体になった出雲大社の雰囲気に染まっていきます。

 まだまだ、大国主命に関しては、分からないことも多いのでしょうが、大国主命が支配した国は、大和朝廷にそっくり引き継がれたのか、吸収されたのかでしょう。大国主命グループ?一族?のメンツは、巨大神殿に大国主命が鎮座することで保たれ、大国主命の息子、暴れ者の
建御名神建御雷神に完膚なきまでにやっつけられ、諏訪の湖の畔から動かない約束で、命を助けられています。

 出雲大社は駐車場が沢山あり、殆どが無料です。くるまで行って駐車場を気にしなくてもいいのは、出雲大社くらいかも知れません。。楽しみながら参拝してみてはいかがでしょうか…。


 
               16)塩味のゼンザイ 

 また一休みで今度は食べ物・飾り物です。佐太神社の広い駐車場の隅に、こじんまりした建物があり「ぜんざい」の旗が見えました。しること書いてあったかどうか、忘れてしまったけれど、なんとなく、何か食わせそうな建物でした。車で移動してはあちこちを見て回るので、腹の方がちょっとは寄れ、と請求です。

 ラーメンでも蕎麦でも、ぜんざいでもとにかく、食堂だろうから入ってみようと、ガラス障子を開けました
=写真・左下=。土産の小物が並んだ棚の前に、テーブルがいくつかあり、年配のおばさんが手作りのようなカウンターの向こうにいました。メニューを見せてもらったら、旗のとおりぜんざい、があります。

 「何種類かぜんざい、はあるけど、お勧めはどれかなー」
 「普通のぜんざいもありますが、ここのぜんざいはどうですか」
 「ここのぜんざい、といっても分からないなー」
 「タイのだしをとった澄まし汁に、あんこの入ったもちを入れます」
 「タイのだし汁だと、塩味だよね」
 「そうです。塩味です。おいしいですよ」

 ぜんざい、といいながら、タイのだし汁とは面白いので、早速頼んだ。お勧めのものは、食ってみると誠に旨い。塩味の出汁が効いているので、汁に浸かった甘い大福が絶妙なのだ。値段も安いし、出汁も本物だったから、大福(あんころ餅)に鯛の塩汁は、まねしてみる価値は十分にある。ここは海も近いので鯛もとれるだろう。もちろん出汁だから、当たり前だが鯛といっても骨や頭のアラを煮込んで味を絞りとっている。

 「昔はお参りの後に、ここで鯛のぜんざい、を食べるのは、最高だったでしょうね。甘いものは神様にお参りした後に食べたんでしょう」

 群馬の山奥では塩がなかった。塩鮭は腹に一杯の塩が詰め込んであるものがよかった。その塩を大事に保存し、漬物にも普段の味付けにも使ったという。

 甘いものは貴重だった。お参りの後のご馳走として皆が好んだのだろう。どこのお宮の門前でも、甘いものは名物になっている。それにしては甘いものが有り余る現代、テレビの食べ物番組で、タレントがそろって言うのは「アマーい」だ。

 「甘いから旨いのかよ」と聞きたいくらいだ。甘いはオイシイの代名詞になってしまい、微妙な味の違いは、今のタレントのほとんどが、表現できない。彼らには、塩味の鯛のだし汁に、あんこ入りのもちを入れた「ぜんざい」の旨さを表現できないだろう。

 今回は思わず塩味のぜんざい、に熱が入ってしまった。次は海草の話になる。出雲路は寄り道が豊富なのかな。


 
          15神在月、出雲へ神々大集合 

 熊野神社が出雲一之宮なら、佐太(さだ)神社は二之宮で、熊野神社と同様に天照大神系の神々が祀られている。そう遠くはない出雲大社の大国主神は“関係ない”存在というような神社だ。大鳥居の正面遥かに豪壮な三殿構えの社が見える。そこへ行き着くまでには、広々とした駐車場を歩く。勿論、無料駐車場でバスでも何でも沢山が悠々と止まれる広さだ。昔は一帯が神社の森だったのかも知れない。

 三殿は佐太三社とも言われ、大社造りの本殿が並んでいる。向かって右が北殿で天照大神と瓊々杵尊(ににぎのみこと)、真ん中が正中殿で佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊ほか2神、左の南殿素盞鳴尊(すさのうのみこと)他が祀られている。主祭神の佐太大神は猿田毘古大神の別名で、高天原から神々を案内した神様だ。導きの神、道開き、福、長寿、交通守護、鎮守などの神として信仰されてきたという。祭典も沢山ありこの神社ならではのものに、神在祭(じんざいさい)裏月祭、神在祭裏月祭止神送神事、神在祭、神在祭止神送神事などが特筆される。

 訪れた時にはちょうど南殿が大がかりな修復作業の途中で、お参りは仮の場所が設けられていた。神在祭は出雲大社、佐太神社、それに知っているところでは、吉備津神社も神在祭がある。元々、神在祭は大国主命の葬儀に全国の神々が集まって、神儀を行う事になっている。大国主の神殿でもないところで、なぜ神在祭を行うのか分かりにくいが、大国主命が没した後、神殿が出来るまでには時間がかかったろう。それに先立ち、神々が集まったのではないか―、などと勝手に考える。

 このあたりは専門家に任せるとして、出雲大社の神在祭は10月10日の夜、稻佐浜で神迎神事ではじまる。かがり火をたき注連縄を張り、海上からやって来る神を迎え、神々を出雲大社の中にある末社に安置する。八百万の神が19の社に“宿泊”するのだ。そして様々な事が行われ、17日に神送りの行事で出雲大社の神在祭は終わる。神様が分宿・合宿するなどいかにも楽しそうだ。

 終わるのを待っていたように旧暦10月20日から25日まで、佐太神社の神在祭が行われる(新暦11月20日~25日)。梅原猛さんは著書の中で「佐太神社は神在祭の本家であるのかも知れない」と書いている。どちらが本家でも構わないけれど、八百万の神が出雲へ集まったのは、きっと大国主神がなくなってすぐだとすれば、佐太神社が大本でも不思議はない。また美保神社の神事は、大国主の国譲りに関するものだという説もあると聞いたので、なおさら、美保神社や佐太神社、熊野神社などが、出雲大社に先んじて、大国主にまつわる政をやっていたのではないかなどと、想像をたくましくして楽しんでいる。


 
    14)  熊野神社

 出雲大社を特集する前に、熊野神社と佐太神社を紹介しておきます。熊野神社は出雲国の一之宮で主祭神は神祖熊野大神櫛御気野命(カブロギクマノノオオカミクシミケヌノミコト)と言う長い名前だが、祭神については論議があるのだという。梅原猛さんは「葬られた王朝」の中で「本居宣長はこの神社の第1の祭神はスサノオであるとしている」と著書に書いている。神社の説明書きでも長い名前はスサノオの命の尊称だとある。伊弉諾、伊弉冉の神もお祀りしてある。

 この神社で有名なのは「鑽火殿(さんかでん)」でスサノオの命が檜の臼と卯木(うつぎ)の杵で火を作り出す方法を教えたのだという。正確には「火を鑽(きり)出す」という表現になる。茅葺き屋根の小さい社
=写真・左と下=だが、壁は檜の皮で覆われ、竹の縁で押さえてある。発火の神器は燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)で、この社に奉安されている。
 昔からの庭園や屋敷にある茶室の雰囲気もあるが、大きさは倍くらいだ。いかにも落ち着いた感じだ。脚光を浴びるのは出雲大社の宮司が亡くなり、新しい宮司が就任すると、熊野神社へやって来て鑽火殿で火を渡される儀式をするのだという。オリンピックの聖火リレーなど、ランナーが火をつなぐけれど、出雲では神代の時代から“聖火リレー”は行われていたわけだ。

 このほかにも毎年10月15日には出雲大社の宮司がやって来て、神器の燧臼と燧杵を受け取る鑽火祭があるという。梅原猛さんは「出雲大社の宮司が持ってくる神餅を熊野大社の社人、亀太郎が散々こき下ろすユニークな神事もある」と書いている。どうやら出雲大社も熊野大社には頭が上がらないようだ。落ち着いた神社で風格もあるが、余り商売っ気がないようで、多くの神社でアピールするパワースポットは、どこにも印、標示などなかった。

 しかし、出雲の神様では第一の地位にいるので、探さなくても神様のパワーは、十分にいただけるのだろうと思うのです。


 
     13) 出雲から諏訪湖まで    執拗な追跡があった

 稻佐浜で屏風岩や因佐神社(いなさのかみのやしろ)を探して、ちょっと迷っていたとき、お爺さんが嬉しそうに「どこへ行く」と声をかけてきました。
 「雷の神の社を探してるんですよ」
 「ああ、そうかい。古いお宮でな。そこをまっすぐ行くと左側にあるよ」

 おそらく社を守っている地元の人でしょう。「行ってみます」と言うと、とても嬉しそうにほほえんで、見送ってくれました。神社
=写真・左=を訪れる人は多くはないでしょう。観光バスはとても入れませんし、出雲大社から歩いてくるには遠すぎます。出雲の阿国の墓に寄り、車でなら問題ありませんが、是非、足を運んでみたらいいと思う所です。稲佐の浜へ行ったら、屏風岩も因佐神社もすぐ側です。因佐神社は建御雷神(たけみかずちのかみ)を祀っているのです。ごく身近な雷様です。

 質素だがとても風格のある、落ち着いた神社です。本殿の前には小川が流れ、太鼓橋があり、社の後はこんもりとした木々に覆われた山です。山を背負った神社はどこで見ても落ち着きます。お参りし、写真を撮ってゆっくり元の道を戻ってきたら、先ほどのお爺さんがニコニコして立っていました。神社も屏風岩も、きっと伝統的な村の誇りなのでしょう。これからもずっと、誇りを持って維持して欲しいと思いました。

 建御雷神が大国主命に国譲りを持ちかけ、大国主命が最初に「話をして欲しい」と言ったのは、息子の八重言代主神(やへことしろぬしのかみ)でした。この神は狩り、釣りに出掛けていましたが、呼び寄せて大国主が「この国は天津神の御子の国だが…」と話すと、即座に状況を察知し、儀式を自ら行って姿を消しました。葦原中国へは戻らない儀式です。これで終わったわけではありません。大国主命のもう1人の息子、建御名方神(たけみなかたのかみ)は、力自慢の神なのです。

 「この国に来て何かものを言っているのは誰だ。力比べをしよう」
 大岩をもてあそびながら、建御名神は大声を挙げてやって来ました。力比べはあっけなく終わりました。

 建御雷神に手を取らせたところ、たちまち手は氷の柱に変化し、剣となって建御名方神を威嚇したのです。驚いて退くと、建御雷神は建御名方神の手を握り、握りつぶして投げ飛ばしたのです。多くの古事記研究者は「国譲りは平和裏に行われた」と言いますが、建御雷神は建御名方神を執拗に追いかけるのです。500人力を誇示し、大岩をもてあそびながらやって来た建御名方神を、投げ飛ばしただけでは済まない事情があったのでしょう。

 追いに追って諏訪の湖まで追い詰め「決してここから出ない。父神・大国主命の言うことに背くこともしない」と約束して、諏訪の宮
=写真・左=に収まったのです。戦いがなかった、と言うより圧倒的な力で、抵抗する大国主の息子神を追いかけ、降参させたのでしょう。以来、諏訪神社(長野県)=写真・左=に祀られているのです。大国主は改めて、出雲の国を譲ることに同意したのですが、一つ条件がありました。

 おおよそ、こんな条件でした。
 
 「天津神の御子が皇位を受けて住まう宮殿のように、壮大な宮殿に私(大国主命)が住み、祭られる事が許されるなら、私は出雲に隠れ留まります。百八十神も背くことはないでしょう」と、壮大な出雲大社を作り、そこに収まったのです。古事記とたどると、こういうことになります。戦争はなかったにしても、天津国の一方的な攻めに、大国主命側で最も力のある建御名方神は諏訪湖まで逃げて、命乞いをするしかなかったのです。それでも大国主命の影響力は浸透していて、天照大神を中心とする天津国は、大国主命が大宮殿を作り、隠遁することを認めざるを得なかったのでしょう。

 高天原、出雲、諏訪…。国は落ち着きました。次は火を燧ちだした話や、熊野神社に残るお宮を紹介します。


 
      12) ようやく国譲りの交渉開始

 いつの時代でも、困った男はいるものです。出先で結婚してしまい、肝心な仕事を忘れてしまうのです。天若日子は“元祖・行ったきり”でしょう。神様にもいろいろあって、ある意味で女に溺れ、なすべき事をおろそかにした、いかにも人間っぽい神様です。

 いつまで経っても報告がない天若日子の様子を見させるため、今度は神ではなく、神の鳥とでも言いましょうか、雉を送り込むことになりました。“鳴女(なきめ)”と呼ばれる雉は、天から下り天若日子の門の上で「荒ぶる神をなだめ、仲良くなれと命じたことはどうした」と高天原の神から言われた言葉を叫びます。

 鳥の鳴き声から吉凶を判断する巫女が「この鳥が鳴くのは不吉だ。射殺した方がいい」と天若日子に伝えます。魔性を持った矢は雉の胸を貫き、高天原まで届きました。天照大神、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)=高木神=は、血のついた矢を見て天若日子に持たせたものと分かり、どういうつもりで矢を射たのかを試します。「邪心があればこの矢で死ね」と矢が飛び出てきた雲の穴から下界は投げ下ろすと、天若日子の胸を貫き、天若日子は亡くなります。

 大国主命の妹神、下照比売は天若日子の死を嘆き、出雲から倭文(しとり)神社の社地に移って住まい、出雲での生活を思って出雲山の中腹
=写真・右=から東郷湖、日本海、さらに周囲の山々を眺めては悲しんでいたということです。東郷湖を回り込んだ峠の上に、写真のような風景の展望台が設けられています。あいにく曇天でしたが、晴れると素晴らしい展望でしょう。

 高天原ではまたもや、遣わす神をどうするかの話し合いです、やっと決まったのは建御雷神(たけみかずちのかみ)で、高天原の意向を大国主命に伝えた神の登場です。雷の文字が入るのですから、雷様でしょうか。古代、雷は雷神であり、恐ろしい鬼のイメージでもあったようです。

 建御雷神が降り立ったのは、出雲大社にも近い伊邪佐之小浜
=写真・左上=、今の稻佐浜です。剣を逆さまに突き立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、大国主命を呼び出したのです。巨大な暗雲を支える鋭い剣、ぎらりと光る雷光と大音響が連想できそうなシーンです。大国主命に「あなたが支配する葦原中国は天照大神の治める国だ。考えはいかが?」

 「私がお答えする訳にはいきません。我が子、事代主神(ことしろぬしのかみ)が申し上げます」と大国主は答えます。稻佐浜の側には屏風岩
=写真・左=があり、そこで話し合いが続いたとされています。今もその屏風岩はありますが、家と家の間の狭苦しいところで、昔はこのあたりも広々とした海岸だったのでしょう。話し合いをするのに、風を避ける格好の岩ですが、住宅街では雰囲気が出ません。それでも、古事記の国譲りの話し合いが行われた場所、として保存されているのは嬉しいものです。


   
    11)  大国主命は    なかなか国を譲りません

 小舟に乗って美保碕に現れ、大国主命と国造りを始め、間もなくいなくなってしまったのが少名毘古那神(すくなひこのかみ)です。そのすぐ後に海を照らしてやって来た神があり「大和の三輪山へ祭れ」と言います。なんだか大威張りで登場した大和の神が、三輪山に祭られていったい何をしたのかは、示されていません。しかし、素盞鳴尊(すさのうのみこと)の子供の大年神が、何人もの妻を持ち、子孫を増やし、大国主とともに国造りを進め、葦原中国(あしはらのなかつくに)が出来上がったというのです。これで大国主の国造りは終わったことになっています。葦原中国の賑わいは、高天原にも届いたということです。

 ここで神話時代の大事件、大国主の国譲りという事態が発生します。出雲国が大和の支配下に入る、または出雲国がすっかり“乗っ取られる”のですが、古事記や多くの学者が言うには「考古学的に見ても戦いはなかった」そうです。平和裏に大国主命は国を譲ったことになります。しかし、国譲りは一筋縄ではいかなかったように思います。天照大神は葦原中国はもともと高天原の一部なので「豊葦原の水穂国は我が御子、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の治める国」と語ります。その通りでしょうが、大国主は「はい、了解です」とは言いませんでした。

 天忍穂耳命は天の浮橋に立って「水穂国は酷く騒がしい」と報告。天照大神は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)に葦原中国へ遣わし、治める神を決めるように伝えました。八百万の神を集めどの神を遣わすかを思金神(おもいかねのかみ)を中心に話し合わせ、天菩比神(あめのほひのかみ)を遣わすことになりました。ところが、この神様は大国主命に媚びてしまい、3年経っても音沙汰なし。大国主命が高天原からの使いを初めから受け入れるつもりなら、こんな事態にはならないでしょう。取り込まれた、と言ってもいいかもしれません。

 そこで、高御産巣日神、天照大神は八百万の神に問いかけます。
 「天菩比神は帰ってこない。報告もない。他の神を派遣しなければならない」
 思金神は天若日子(あまのわかひこ)を遣わすことにし、天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)を持たせます。天をも突き抜ける“魔性を持った弓矢”でした。今度はどうか?

 やはり駄目でした。天若日子は水穂国に降った途端に、大国主命の娘、下照比売(したてるひめ)の虜となり、夫婦になってしまいました。うまくいけば大国主命の支配する国を、そっくり自分のものにしようと考え、8年もの間、高天原に連絡もしないで過ごしていました。このあたり、大国主命は上手に高天原から遣わされた神を手なずけたり、娘を使って遣わされた神を「後継ぎにしてもいい」ようなことを言ったのかどうか、手の内に取り込んでしまったのでした。

 高天原では“光り輝く神”を送り込み、三輪山に祀らせ、あとは使いを出して国を譲らせればいい―、そんなふうに考えたのかも知れないけれど、神様もこのあたりはなかなか人間的な雰囲気を持っているようです。弓矢まで持たせて派遣したのだから、一戦を交えても、国を譲るよう迫れ、と言うことだろうと考えます。弓矢を持っていくというのは、決して平和裏に交渉を進めてこいと言ってはいないようです。長い月日をかけても、大国主は国を譲る気配もないのです。古事記の研究者や歴史学者などは、こういうことが分かっていても、なぜか国譲りは、スムーズに進んだように話を進めてしまっているのです。

 そして、国を譲らせるまでには、まだまだ、隠された“戦い”まであるように思ったのです。それは次回に書くつもりです。
(写真は下照比売を祀る倭文=しとり=神社)

 
         10) 夢を誘う神々の旅

 出雲路を大国主命の足取りを基本に、巡ってみようという旅ですが、神様の“大物”は、まさに不老不死で何世代も経た神様が、それこそ何世代も上の祖先の時代に、祖先と一緒に活躍していた神様の娘を娶ったりします。今の世でまともに、論理的にでも科学的にでも考えを巡らせたら、それはもう理論づけるのは無理もいいところです。そういう理屈に合わないのが、全世界に多々ある宗教の頂点に立つ神なのでしょう。
 出雲にはイザナミの命を祀る神社が沢山あります。神魂神社
=左=はイザナギ、イザナミ大神を祀って由緒があり、本殿は国宝です。室町時代初期、正平元年(1346年)に建立された社殿は、大社造の古式に則っているとさsれ、日本最古の大社造りとして国宝になっています。本殿内には狩野山楽土佐光の筆と伝えられる壁画が巡らされている。見せてはもらえないが、カラーの絵はがきを社務所で売っている。
  立派なお宮なのに、訪れる人は希で、なんだかもったいないような気がしたので、神主さんにそう言ってみた。返事はなるほどと思わせると同時に、お札やおみくじを売りまくり、輸入高級車を乗り回す有名寺院の神主や坊主が多い中で、こういう人もいるのか、とむしろ驚いた。

 「ここへは神様をお参りに来る人だけでいいんです。バスなどで観光客が押し寄せると、静けさはなくなり、ただうるさいだけです。静かな今のままの方がいいのです」 

 なかなかの弁だが、石段の先には大きな駐車場があるし、壁画を絵はがきにして売っていることなどを併せて考えると、最近になってこのお宮を訪れる観光客が激減したのではないかとも思う。人はいろいろと考え、都合のいいことを言うし、ありもしないことを最もらしく吹聴もする。しかし、神魂神社の静けさは神々の時代を想起させるものがあるようだった。

 黄泉比良坂(よもつひらさか)は黄泉の国と現世を分けるところだが、5~700㍍ほどのところに揖屋神社(いやじんじゃ)
=左下=がある。古事記には伊賦夜坂(いふやざか)があり、黄泉比良坂の別名だとも言われる。大昔は今のように道もなく、家も少なく、地域一帯が神話の世界を構成していたとすれば、この神社が黄泉の国から逃げ帰ったスサノウを祀るのも合点が行く。

 神々の足跡を年を追ってたどるなど、所詮無理な話だと思い知ったのだが、イザナギの命は天照大神、須佐之男命、月読命の親なので、大国主命の6代前と系図は出来上がっているが、次かその次に書く予定の「国譲り」を考えると、大和朝廷と出雲の「大国主王国」は元々は別系統だったが、朝廷・天皇の一貫性を記すためには、大国主がスサノウの6代後で、スサノウの娘を妻にすることなどで、古事記は天照大神から続く皇統を理屈づけたのかも知れない。

 面倒なことは何となく旅して、興味本位に古事記を読み、何となく知ったかぶりで書いているけれど、お宮や神跡に立つと、神々しい雰囲気に浸れることも事実なのだ。だから神々の足跡をたどる旅は、限りない夢を誘い、興味が尽きないのだと思う。



 
          9)  どじょう掬いで一休み
     
 
 出雲の地は大国主命の支配する出雲が、古事記には余り語られることがなく、須佐之男命を中心とする神々が幅を利かせています。イザナギ、イザナミが国作りを初めて、最初に作った国はオノコロ島で淡路島だとされます。淡路島は出雲の旅の後に巡ったので、後に国作りの原点だというお宮などを紹介しますが、出雲では大国主命が国譲りする際に、立派な宮殿を作り、そこに住むことを条件としたようなので、出雲大社が出来るまでやその後かも知れないけれど、古い神社などを見て回りました。

 神社巡りの途中には、出雲観光で欠かせないものになっている、足立美術館とその横にある、安木節の名物ドジョウ掬いなども、当然見物です。足立美術館は観光案内を見ると必ず掲載されている“名所”で、美しく整備された日本庭園と横山大観を中心とする日本画のコレクションが呼び物です。絵画は残念ながら、撮影禁止ですが、庭園は館内から撮影できます。もっとも庭園はやはり庭園の枠を出られず、大自然には到底かないませんが、繊細な手入れは、ここまでやるか、の世界があります。

 安木節はドジョウ掬いだけではありません。むしろドジョウ掬いは全体のごく一部の余興という位置づけでしょうが、見物する方はコミカルな踊りがお目当てです。入ってみてとても面白いし、やはりインターネットなどの映像で見るドジョウ掬いと、目の前でオッサンが踊るそれは、明らかに笑いの深さが違います。一踊りした後に希望する観客の5,6人にドジョウ掬いの格好をさせ、舞台の上でお稽古、そして踊ってみせるのは、なかなか面白いのです。

 神様巡りでくたびれたところで、大笑いはいいものです。

♪あら、エッサッサー\(^o^)/

 
          8) 八重垣神社の池

 須佐之男命を祀った神社は圧倒的に多いが、八岐大蛇を退治した後に櫛名田比売と一緒に住む宮を作ったとのいわれを持つ神社は、前回の須我神社と今回の八重垣神社の二つ。神話に源を発するものなので、どちらが正統なのかを論じても話にならない。ただ古事記にはこんな表現がある。

 「吾此地(このち)に来て、我が心すがすがし、とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。(略)故、其地をば今に須賀といふ」

 須賀と須我の違いはあるが、須我神社には奥の院もあり、なにやら遙か昔を思わせるものがある。神社そのものも質素で、奥の院まで登り、大きな岩を前に座っていると、風に揺らぐ御幣がなにやら昔を語りかけてくるような感じもある。一転して八重垣神社。こちらはいかにも現代のお宮で、きらびやかな印象がある。広い駐車場が正面と横にあり、観光バスも自家用車も、無料で駐車できる。

 鳥居を潜り、門を入ると社務所があり、目を引くのは占いの紙だった。勿論、普通のお札やお守りは売られているが、半紙半分くらいの紙を一枚100円で売っている。一通りお参りして、裏 の方へ回り込んで全てがわかった。八重垣を巡らしたつもりなのか、杉林が竹の柵で囲われている。その先に小さな池がある。上手には祠があるが、大勢の女性が池に向かって拝んだり、水面をを見つめているのだ。

 「紙の上に10円か100円硬貨を載せ、浮かべてください。早く沈めば良縁が早く来ます」と立て札にある。別の立て札には「携帯や持ち物を池に落とさないようにしてください。拾えません」と書かれていた。池には沢山の占い紙の舟?が漂い、紙には占いの文字が浮き出ます。「東南方面 良縁あり」などと白く文字が浮き出るのだ。櫛名田比売が毎日、池に顔を映した、ともあったが、古事記にそんなことは書かれていない。毎日、数百人、時には数千人が占いの紙を浮かべ、その紙は10円、100円とともに底に沈む。水は澄んでいるが、池そのものはゴミだらけで汚く見える。

 毎日のように掃除をしないと、池は紙で埋まり、底はコインの山となって、半年もすると池は埋まってしまうだろう。「水底に宝あり」などと書かれた当たりくじはないのか?

 ニンマリとした宮司が、水を抜き、闇に紛れて池浚い―、なんてシーンは、誰も見たことがないだろう。しかし、須佐之男命や櫛名田比売は全てお見通しということになろうか。神社の由来記にはいいことが書いてある。“出雲音頭”とでも言いたい文言の囃子歌。

 ♪早く出雲の八重垣様に 縁の結びが願いたい

 出雲神楽歌には大蛇を退治し、櫛名田比売の両親を残して佐草の里へと移住するとき、こんな歌があるのだという。
 「いざさらば いざさらば 連れて帰らむ 佐草の郷に…」

 縁結びの神様は、どこでも若い女性の人気がある。八重垣神社は子宝の神でもある。それが若い女性で大賑わいだ。結婚相手が居ないとか、少子化だとか、神社に願を掛ける人が多い割には、世情に反映しないのはどうしたわけだろう。今の男は須佐之男命のように、しっかりと女性を囲い込む力がないのかな。

 
八雲立つ 八雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 草食系は排斥し、八岐大蛇と対峙するような逞しいオノコ求める心が、若い女性には本能としてあるのかな。この賑わいは…。


 
 
         7) 須我神社と奥宮の須佐之男命  

 話はずっと遡り、大国主命の祖先(7代前)の須佐之男命と櫛名田比売は日本の神様が初めて結婚した話です。高天原を追放された須佐之男命は出雲国の斐伊川上流の鳥髪(とりかみ)と言うところに降りました。箸が流れてきたので上流に遡っていくと、老夫婦が娘を中に泣いていました。恐ろしい大蛇、八岐大蛇に娘を生け贄にしなければならないのだと言うのです。有名な八岐大蛇の退治は須佐之男命が「この娘を私の捧げるか」と問いかけ、筋用を聞かされた老夫婦は喜んで娘を捧げることに同意します。ここから八岐大蛇退治がはじまります。

 8樽の酒を8つの首で飲んだ八岐大蛇が、須佐之男命に切り刻まれ尾から草薙剣が現れ、それをを取り出し、草薙剣として、三種の神器になったことは、広く知られた神話です。老夫婦の娘、櫛名田比売と暮らす宮殿を作るために探し当てた場所が、須我神社のある場所だということです。須我の名は須佐之男命が「ここへ来てすがすがしい気持ちだ」と言ったことから名付けられたそうです。これは古事記にも書いてあるし、宮司も言っていました。
 
 当然、詩があります。日本初の歌とされています。
 
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠み(つまごみ)に 八重垣作る その八重垣を」
 須我神社の宮司は「ここが日本最初のお宮です。ここだけでは片参りになるので、奥宮も参拝してください」と言いました。そう遠くはないというので上り口まで車で行き、山道に入りました。結構長く、最後はとても急でした。大きな岩と少し小さい岩、それに小さい岩があり、須佐之男命、櫛名田比売、その子供たたちだと書いてありました。奥の院はまさに奥で、山深い八雲山の頂上近くにありました。

 山を下り、須我神社のお宮の少し下手には、大きな鳥居があります。今は鳥居とお宮の間に家が建っていますが、昔は森の中に一の鳥居があり、真っ直ぐに二の鳥居、三の鳥居、そして本殿へと続いていたのでしょう。一の鳥居の側には川が流れていて、神主は「須佐之男命は八岐大蛇を退治した時に浴びた血をその川で衣類や体を洗った。川は三日三晩、赤く染まったと伝えられている」と言いました。

 神々の跡をたどるのは容易ではありませんが、とても興味をそそられます。後から作られた話が多いのは勿論でしょうが、古事記にあるそのままの様子も残っていて、神話の不思議さを思うのです。同じように須佐之男命と櫛名田比売を祀った八重垣神社もありますが、このお宮は次回に譲ります。


6 去る神、来たる神
  大国主の国作りは、変な6神様と一緒にやることになりました。大国主命が美保碕で海の彼方を見ていると、小舟に乗った神がやって来ました。前回の絵で見るとまるで“一寸法師”そのものです。神話は少名毘古那神(すくなひこのかみ)から、様々な話に枝分かれしていきますが、古事記では国作りを手助けする神としてだけ、語られています。これといってめぼしい仕事をしたとは、どこにも書いてありません。

 変な神様ですから誰も知りません。古事記では、谷蟆(たにぐぐ=カエル)が、崩彦(いうえびこ=かかし)が知っているだろうと言います。確かめたところ神産巣日命(かむむすびのみこと)の子だと分かりました。

 「だからどうなんだ!」と言いたいのですが、大国主命が八十神に殺された赤猪岩の事件で、最初の蘇りを成し遂げさせたのは、神産巣日命でした。親が焼けた巨岩に潰された大国主命を蘇生させたが、その子も大国主命の手伝いにやってきたのです。“小さな神様”は不思議なことに天照大御神よりも古い神様なのです。

 力を合わせて国作りに励んだのですが、少名毘古那神がどういう仕事をしたのか、さっぱり分からないうちに国作りは終わり、一寸法師のような神は常世国へ行ってしまいます。神話の序盤でもっとも“いい加減”なのは、このあたりでしょう。一緒に国造りをせよ、と言われて、はじめはしたけれど、突然、別のところへ行ってしまわれたのでは、誰だって困ります。恐らく次の神が現れるので、小さいお神様は何らかの理由で、忘れられて仕舞ったのでしょう。大国主命がどうしたらいいか迷っているときに、またまた海を照らしながら別の神が現れます。

 「私と一緒に国作りをしなければ、国は出来ない。私を大和の国を青垣のように囲っている山の内の、東の山上に祀れ」と言います。今で言う大和の三輪山です。出雲中心だった話は、ここで何気なく大和へと場を広げていきます。そして、古事記は突然、大国主命の先祖、素盞鳴尊(すさのうのみこと)の子、大年神が沢山の子供を作り、スサノウ一族の繁栄している有様を強調します。どういうわけか、ここで大国主命は、葦原中国(あしはらのなかつくに)を完成させたことになります。神話に矛楯は多いのですが、大国主がどういう国を作ってきたかは特に語られません。

 素盞鳴尊の直系の子孫が発展していることが、表に出て、大国主命は余り活躍しないままに国作りを終えたことになっています。今回の項では出雲を歩き回っても、現場の神跡がありません。美保関の美保碕位のものです。なんだか出雲支配の国が、大和支配の国に権力移行する時のように書かれています。そして、古事記は、出雲の国譲り、へと移っていきます。大きな支配階級の変化があったのかも知れません。


 
          5)  大国主命の国作り
 大国主命は古事記で見る限り“強い男”とはいいにくいところがあります。勿論、神様ですから強大な力は持っていますが、虐められたり、逃げ回ったり、女性に助けて貰う場面も沢山でて来ます。天照大御神が高天原で物事を決めるのも、神々を集めての合議制ですから、大国主だけが優柔不断とは言えません。素盞鳴尊(須佐之男命=すさのうのみこと)が、並外れて強烈なので、いっそう大国主のおとなしさが目立ちます。

 強い個性を持つ須佐之男命の娘と結ばれた大国主は、根之堅州国から須勢理比売(すせりびめ)を連れて帰ってきます。そこには八十神を袖にして、大国主の妻となった八上比売が待っていました。神様はこういう時でも喧嘩はしません。亭主が連れ帰った新しい妻に遠慮して、八上比売は子供を木の股にはさみ、そこに残したままで実家へ戻りました。もしかしたら、大声は出さなくても猛烈に怒り、子供は育てなさいよ!と無言の抗議で、去っていったたのかも知れません。

 「色男、金と力はなかりけり」などと現世では言うのですが、大国主命は神々の中で、特に強くはないし、裕福とも書いてはありません。それでも、歴代の支配者層に取って当たり前だった“多妻”の例に漏れません。次には高志国(越の国)に沼河比売(ぬなかわひめ)という美女がいることを知ります。連れ戻った須勢理比売を残して早速、遠征です。

 越の国にたどり着き、沼河比売の家の前に立つと、今度は詩を詠んで訴えます。恋女房のはずの、八上比売が、実家に戻ってしまったし、新しい妻、須勢理比売を迎えたばかりなのです。多くの子孫を残すことが大切だった古代の神々は、複数の妻を持つことが当たり前だったのです。大国主命は記録されているだけでも7人の妻を娶りました。そして、沼河比売には、ぬけぬけと呼びかけるのです。
 「大八洲の国で妻をめとることが出来ないで、遠い越の国に賢く、麗しい女性がいると聞き…」などと詠い上げます。どうもこの詩に限っていうと「神に誓って…」などというのは“嘘っぱち”ではないかと思います。「妻を娶ることが出来ない」とは何事でしょう。

 大国主は大八洲(日本国)に既に2人の妻を持っているのです。初日、2日目と詩のやりとりが続きますが、沼河比売は扉を開けません。ようやく3日目の夜になって愛の詩を詠み交わし、交わったとあります。現代のストーカー諸君とは、比べものにならないほどモテるし、言い寄る技術にも長けているのです。

 大国主は支配する国を広げるために、次々と恋をし、子供を授かって行きます。気の強い須勢理毘売も寂しい思いで、あるとき戻ってきた大国主に酒を勧めながら、男である大国主は岬を巡るごとに若い妻を持つだろうが、私は女なので、男はあなただけです―、と訴える詩もあります。

 大国主の国造は出雲の御大之岬(美保碕)で、海の彼方から小舟に乗ってやって来た少名毘古那神(すくなびこなのかみ)
=左上、波の頂上に見える=と力を合わせ、国を築き上げるのです。

 美保関の港は明治時代までは「山陰一」といわれた賑わいで「遊女だけでも200人」もいたそうです。その面影は、港近くの路地に僅かに残っていますが、交通機関の発達した今、寂れるのは必然でしょう。

 しかし、見事な美保神社があります。美保碕
=左・中=には大黒様が釣りをした、といわれる岩礁が鳥居越しに見えます。灯台は昔のまま残っていますが、今は灯台の職員が使っていた建物は、レストランに代わっています。

 広い駐車場からは大山が海越しに綺麗に聳えています。隠岐の島へのフェリーが白波を立てて通り過ぎていきました

 

 
      4)   黄泉比良坂(よもつひらさか)

  平たくいえば日常の世界と非日常の世界を隔てる“場所”が、黄泉比良坂(よもつひらさか)です。話には聞いていても、大まじめに存在するとは思ってなかった。死んでしまい黄泉の国へ行ってしまったイザナミに会うため、イザナギが出向き、腐敗してウジのわいたイザナミを見て、一目散に日常世界に逃げ戻ろうとすると、イザナミや黄泉の国の兵たちが追いかけてくる。逃げに逃げ、やっと黄泉比良坂にたどり着き、桃を投げつけて逃げおおせた。

 イザナギだけの話かと思っていると、大穴牟遅神(おおなむじなのかみ)もやはり根之堅州国(ねのかたすくに)から逃げ帰るときに、この坂を通り、逃げ切っている。出入り口は同じでも、坂の途中で道が分かれているということだろう。

 古事記に二度も登場する有名な坂なのだが、どうやら日常の世界と、非日常の世界を分ける坂のゲートなのかも知れない。ここに登場する黄泉比良坂も黄泉の国と根之堅州国などへの通路でもあるようだ。近くには揖夜神社(いやじんじゃ)
=写真・右下=があって、イザナギや大国主命を祀っている。どういうつながりなのかなどは専門家に任せるとして、現代の黄泉比良坂はのすぐ横には車で“横付け”出来るし、歩き回るのも勝手だ。

 車が10台ほど駐められる駐車スペースがあって、そのすぐ先に、大きな石や「神跡」と書いた碑が立っている。ちょっと右手には、2本の石柱があり、注連縄が張られている。一段、高いところには小さなため池があって、そこを回り込んで山の中へ、細い踏み跡が続いている。おそらく歴史好きが、神話の道を歩いているのだろう。踏み跡はかなりはっきりしていた。ちょっとたどってみたが、特に史跡があるわけでもなし、意味ないので止めにした。大岩の先は下りになっているが、こちらは森林と藪で気味が悪いのだろうか、踏み跡はなかった。

 地獄・極楽、三途の川を渡るとあの世―、などと言うのは仏教で、神話で“あの世”というのは黄泉の国に当たるのだろう。しかし、大穴牟遅神が兄たちから逃れて逃げ込んだのは、根之堅州国だった。頼ったのはスサノウだったが、素盞鳴尊(すさのうのみこと)に会う前に、娘の須勢理毘売(すせりびめ)と”出来て”しまう。

 神代の時代の男女はおおらかで、いってみれば芸能界みたいについたり離れたりだが、女神の方はいくら男神が女を作ろうが、他の男になびくようなことはないのが芸能界と一線を画している。

 須勢理毘売は大穴牟遅神を父・スサノウに紹介するが、なぜかスサノウは次から次と、大穴牟遅神に難題をふっかけ、最後には野に火を放って焼き殺そうとまでする。大穴牟遅神はスサノウが眠っているときに、太刀、弓矢(武力)、沼琴(主教的権威)を持ち、須勢理毘売を背負って逃げ出す。気づいたスサノウは追いかけるが、2人が黄泉比良坂を越えたのを見て叫んだ。

 「太刀と弓矢で兄弟をやっつけろ。お前は大国主神となって国を作り、須勢理毘売を妻とし、出雲国に壮大な宮殿を建てろ」

 ここで大穴牟遅神は初めて大国主命の名前となった。スサノウは大穴牟遅神をが過酷な試練を乗り越えたために、国作りの神として認めたのだろう。

 須佐之男命はイザナギの子、天照大御神、月読命と3姉弟。大穴牟遅神は7代目。神様は亡くならないので、6代前の祖先の娘と結婚しても不思議ではないようだ。しかし、ちょっと変だ。前回、赤猪岩神社のところでは、大国主命は、蘇りはしたが
“二度死んだ”はずだ。神様は死なないはずだが、イザナギは亡くなっているし、大国主命は2度も死んで蘇った。

 こんなことを考えながら、黄泉比良坂の大岩を回り込んだり、柱を撫でてみたりしたが、何事もなかった。黄泉の国や根之堅州国などは、どこかに名前だけでも付けた場所があるのかと調べたが、神跡としてはどこにもなかった。いずれ川の向こうへ行ったときに探してみよう。


  3 赤猪岩神社
                            
 神代の時代でも美人に集まる男どもは多いようです。そして“奪い合い”や“やっかみ”も人間社会と似たようなものに神話でも描かれています。大穴牟遅神(おおなむぢのかみ)=大国主命=が八上比売(やがみひめ)を妻にしたことで“振られた”兄たち八十神は怒り、大国主命を亡き者にしようと悪知恵を働かせます。

 「赤い猪を追い出すから、お前が捕まえろ」といって、真っ赤に焼けた大岩を山の上から転がしました。正直に焼けた岩に飛びつき、焼け、潰れて大穴牟遅神は死んでしまいます。

 その大岩を封じ込め、大国主命を祀った神社を見に行きました。米子の東南東、南部町寺内にあります。最近出来たばかりの駐車場が、小さいお宮の下にありました。狛犬さんと鳥居があり、石段の先には山を背負ってお宮が見えます。こぢんまりしていますが、風情はあり、大社風の太い注連縄が見事です。古事記では事件のあった場所を「伯伎国の手間の山本」と記しています。

南部町は現在地(南部町寺内宇久清)を事件のあったその場所とし、赤猪岩神社を祀っています。

 大国主命の母神、刺国若比売(さしくにわかひめ)は嘆き、天に昇り神産巣日之命(かむむすひのみこと)に、大穴牟遅神=大国主命=を助けて欲しいと嘆願したそうです。神話の神様の名前は長くて馴染みが薄く、読むのも書くのも往生しますが、神産巣日之命は願いを聞き届け、赤貝と蛤を擬人化した神を地上に送りました。2神は赤貝の粉を蛤の汁を母乳のように溶いて火傷に効く古代の薬を作り、大穴牟遅神の体に塗るとたちまち蘇生して元気になりました。

 赤貝といい、蛤といい、母乳状に溶く方法といい、女性がかいがいしく介抱する様を描き出しているようです。赤猪に見せかけた焼けた大岩は、赤猪岩神社の本殿横に封印されています。いわれが書かれた立て札があり「封印されている赤猪岩」と題しておおよそこんなことが書かれています。

 「この岩は地上にあって二度と掘り返されることがないように土中深く埋められ、大石で幾重にも蓋がされ、その周りには柵が巡らされ、しめなわが張られています。この“厄の元凶”にたいする注意を子々孫々まで忘れてはならないことを教えています」

 石柱の囲いがあり、注連縄が張られ、大きな岩が蓋のように重なっています。苔むした岩はいかにも神話の大岩を閉じ込めたような雰囲気がありました。この神社は唯一、再生の神社でもあるようです。

 しかし、八十神はしつこく、大穴牟遅神が蘇ったことを知ると、再び謀を巡らし、木に切り込みを入れ、大穴牟遅神をその割れ目に入れてくさびを抜き、はさみ殺してしまったのです。はさみ殺されているのを探し出した母神は、自らの自らの力で助け出し、こう伝えます。

 「あなたはここにいると、八十神に滅ぼされてしまいます」と木国(紀伊国)の神のもとへと逃がすのです。八十神はまだ追いかけますが、母神に頼まれた大屋毘古神(おおやひこのかみ)は、弓矢で引き渡すよう迫る八十神の前から、こっそりと逃がします。

 「須佐之男命(すっさのうのみこと)のもと、根之堅州国(ねのかたすくに)へ行きなさい。必ず大神が取りはからってくれるでしょう」

 大穴牟遅神が八十神に2度も殺され、2度とも蘇り、さらに追われるのは、八上比売を妻にしたからですが、逃げた先では新たな恋人を作り、物語が展開するのです。神の世は恋多く、それにまつわる事件も沢山あります。根之堅州国での出来事もその一つでしょう。そして大穴牟遅神が、再び地上世界へ戻ってくる時の”境”が黄泉比良坂(よもつひらさか)です。この坂も「ここだった」とする場所があります。次回はこの坂へ行ってみた時の話です。

 
    
 2) 大国主と因幡の白兎

 〇…大国主命に関係する話で「因幡の白ウサギ」はもっとも有名だ。兄たち八十神に従い、荷物を担いで歩いていた当時はまだ大穴牟遅神(おおなむぢのかみ)の名だった大国主命は、赤むけになったウサギが泣いているのを見つけ、訳を尋ねた。ご存じの通り、ワニ(サメ)の一族とウサギの一族のどちらが数が多いかを比べようといってワニを並ばせて隠岐の島から渡ってきた。最後に「私に欺されたんだ」と言った途端に、もっとも端にいたワニが食いつき、皮を剥いてしまったという話だ。

 〇…兄たちはウサギに「海水を浴びて陽に乾かせ」と嘘を教えたが、大国主命は正しい治療法を教える親切心があった。兄たちは因幡国に住む八上比売(やがみひめ)を妻にしたいと思っていたが、ウサギは八上比売が大国主命の妻になると予言。それが的中する。ワニに皮を剥かれて治療も出来ないウサギが、予言するなどとはいかにも可笑しいが、その通りになってウサギは後に「兎神」と呼ばれるようになる。

 〇…昔は小学校の頃にこの神話は教えていたし、歌もあった。今はどうなっているか分からないが、以前、白兎神社に来たときには、ドライブインもなかったし、社務所もなかった。今は大きなドライブインがあり、広い駐車場も出来ていた。兎が体を洗った池や蒲の穂で身を包んだ池の畔は、綺麗に草が刈ってあったので、体を洗った後に、蒲の穂で身を包むことは難しそうだ。

 〇…虐められ、酷使されても弱い者をいたわる親切心があれば、いずれ報われるという話しなのだろうか。大穴牟遅神は、その後、八上比売を妻にはするが、2度も兄たちに殺され、母親に助けられて蘇っている。そういう話のあるお宮も見に行ったので、後に写真とともに様子を掲載します。

 〇…大国主命と呼ばれるようになるのは、古事記ではまだ何度もの試練を潜り抜け、黄泉比良坂(よもつひらさか)を駆け抜けて、地上の世界に出てからで、それまでは大穴牟遅神(おおなむぢのかみ)と呼ばれていました。専門家でもないし、古事記の研究をしているわけでもなし。ただ、神話の世界で今の世と関連のあるところのうち、今回は出雲路と、後から別にレポートする淡路島を巡ってきたのです。

 〇…白兎神社に来る前には、鳥取砂丘から少し東に走ったところの浦富海岸へ行ってみました。荒砂神社というお宮があり、海岸へこんもりとした森が突き出ています。急な階段ですが登ると、ちょっとした遊歩道が出来ていて、松と島と海の青さ、白波がとても綺麗です。小さな半島のようになっているので、海岸伝いに走ると漁港への狭い道ですが、ゆっくり走って、いい感じのドライブです。
 
       
 
   出雲神話と大山

   鳥取砂丘とらっきょう畑

 〇…大山は“神話の旅”につきまとう見事な山だった。鳥取砂丘から美保碕、さらに西によっても、大山は姿を変えながら聳え立っていた。神話の時代には噴煙が上がっていたようだ。
出雲国風土記で大山は「国引き」の際に引いてきた綱を、弓ヶ浜でつなぎ止めた杭、ということになっている。何とも壮大な話だ。

 〇…富士山も江戸時代には宝永の大噴火だけではなく、常時、山頂から噴煙をたなびかせていたようだ。このところまたぞろ、富士山の噴火が近い、という話が広がっている。マスコミが2013年の暮れから2014年の1、2月に盛んに報じていたが、3月の声を聞くと殆ど話題にならなくなった。2020年代に入って、南海地震が言われるようになると、またぞろ”富士山噴火”の話がよみがえってきている。

 〇…もう20年ほど前になるだろうか、やはり富士山が間もなく噴火する、と唱える学者がいて、マスコミの話題になった。新書版で仮説を書きまくり、ベストセラーになったような気がする。地質学や地震学?はどうも当てにならない。 なにしろ自然を相手で地球の内部の動きや宇宙のバランスなどとも関係する学問。地球の数百年は人の生きる感覚からいうと、一瞬に過ぎない。学問で噴火を予測するなど、およそ無理なのかも知れない。だから富士山や大山が1ヶ月、半年、1年後に噴火しても不思議はないのだろう。

 〇…サハラ砂漠やタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠などの旅で、砂漠はとても身近だったが、鳥取の大砂丘は日本最大で、観光客に人気がある。御前崎や御宿にも海岸の砂丘はあるが、砂漠とはほど遠い。砂漠というと日本ではラクダが付きもの。「月の沙漠」の歌がそうさせるのだろう。鳥取砂丘では数頭のラクダが観光客を背にゆったりと歩いている。客のいない時に、怠けきったラクダが首から顎まで砂に預けて休んでいるのを見て、ラクダまで平和ボケしたのかと思って笑った。
 〇…鳥取砂丘の近くには、らっきょう畑が広がっている。砂地で育ちがいいのだろう、砂丘周辺の畑はあらかたらっきょうで、加工工場もある。工場には小さな即売所が事務所を兼ねてあったので、何種類か漬け方の違うものを買ってきた。なかなか旨い。今時は危険な農薬の入った外国産も多いので、直売所で買ってみて、おいしかったらそこへ直接ファックスか電話で注文することがたびたびある。値段はともかく、味も品物も確かなのだ。漁協に頼むこともある。旅の途中、自分の目と舌で確かめるのは、楽しいものだ。