
①伊勢・古市
②外宮と猿田彦神社
③お伊勢様のリサイクル
④土産は菓子類の氾濫です
⑤別宮と二見浦
⑥伊勢の台所・河崎の港町
⑦大王崎と志摩の海
⑧松坂と本居宣長
写真は伊勢・大王崎灯台
①
神宮の外宮と内宮をつなぐ参宮街道は、半ばに通称・古市丘陵と呼ばれる丘があります。緩い坂ですが昔 はその坂をゆっくりと上る伊勢参の人たちを相手に、物売り、芸人、乞食などが大勢いたようです。
先日、この街道を通ってみましたが、大きな石灯籠や昔、その場所にあった、大店の名前、さらには三味線芸人で美人の呼び名も高かった「お杉 お玉」が芸を売っていた場所には、石柱が立っていました。
しかし、この辺り一帯に70軒もの旅館、妓楼、料理屋などがあり、抱えていた妓娼1000人などと言うことは、今の街並みからはまるで想像できない静かさです。ただ一軒だけ昔ながらの建物で旅館業を続けている宿、麻吉旅館=写真・左下=がありました。
十返舎一九の東海道中膝栗毛では、五編追加として弥次さん喜多さんが伊勢・山田から御師の手配した駕籠に乗って古市へと繰り込むのですが、乗る駕籠を間違えて、例によって大騒動。笑いに紛らわしながら見事に古市の賑わい振りを描いています。麻吉旅館は当時料理屋だったようで、文庫本ではお伊勢参りの大騒ぎの中で、一度だけ名前が出てきます。
 
東海道中膝栗毛(岩波文庫=上=から
♪伊勢はナァ-ァ 津で持つ 津はァー伊勢でェー持つ 尾張リイ名古ーオ屋はァ ヤンレェ 城で持つ(コラ コラ ヤートコオオーセェー)
弥次さん、喜多さんは「お参りする前に山へ上がる(古市で遊ぶ)のは…」と言いながらも、引っ張り込まれた振りをしての大盤振る舞い。同じようにほかの旅人もまたそれを目当てのお伊勢参りでもあるのです。伊勢音頭、河崎音頭が三味線で拍子をつけ、替え歌は数限りなし。思いつきを拍子に合わせて歌うのですから、勝手な歌詞はいくらでも出来ます。お馴染みの♪おまえ百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の生えるまで…、も数あるウチの1つですが、そんなに歳をとらなくても白髪は生えるし、禿げもします。ひょうきんな歌から卑猥なものまで、それはそれは名調子で唄われたようです。
麻吉旅館は懸崖造りとかで、急坂の曲がった 道に沿うように建っています。昔の抜け道で、宿の前には大きな石柱の案内があります。
「左 あさま 二見へ ちか道」
宿は参宮街道から7,80㍍引っ込んでいるので、昔は街道に建っていたのでしょうが、区画整理課何かの際に、捨てるにはもったいないと、麻吉旅館の前に運んだと推測されます。宿の若主人は「私が物心ついたときには、もうここに建っていました」と言っていました。あさまは朝熊山でこの山の頂には金剛證寺、麓の丘陵には万金丹の本拠がある。二見浦は昔からの名所で、お伊勢参りした人のほとんどが立ち寄ったそうです。
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② 
伊勢神宮は外宮から参拝し、内宮はその後という伝統があるようです。内宮は天照大御神、外宮は豊受大御神をお祀りしています。伊勢神宮はこの2つの社殿を嶽を指すのではなく、伊勢・志摩に点在する125の総称ということです。豊受大御神は衣食住をはじめ産業全てをお守りする神で、天照大神の食も当然司ることになります。
外宮には広い駐車場があり、真新しい鳥居が綺麗な肌を見せていました。参道は2カ所あり、表門のほかに北門からも入れます。神楽殿のところで合流します。
正殿前の広場には、人気のパワースポットがあり、四角に積まれた石に手をかざす人が大勢いました。パワースポットは元々、そういうものとされていたのではなく、最近になって旅行社などが言い出し、いつの間にか定着し、数も増えてあちこちにあります。伊勢神宮の外宮の正殿前の石積みは、第十一代崇仁(すいにん)天皇(紀元前29年~紀元70年)が伊勢大神をお祀りした場所だと聞きました。お参りした後にもう一度ここを拝礼すれば、単なるパワースポットを遥かに超える効果があるかもしれません。
土宮、風宮、多賀宮の別宮がすぐ側にあるので、お参りしました。風宮は元寇の乱で蒙古軍が攻め寄せたとき「神風を吹かせてせん滅した」神様と信じられています。神様にはそれぞれ役目や“得意技”があるようで、いわれや由来を知るとお伊勢参りも楽しさが増します。内宮にお参りする前に、猿田彦神社と猿田彦神社の中にある佐瑠女(さるめ)神社にお参りしました。天孫降臨の際に高天原から下る神々をお迎え、案内する役割を猿田彦(猿田毘古大神)が行なったのです。その神様を先ずお参りしてから内宮へ向かうことにしたのです。
猿田彦と初めに話をしたのが佐瑠女(猿女君)で天宇受売命(あまのうずめのみこと)ですが、この女神はとてもユニークで、天照大御神が天岩戸に閉じこもったときに、神々が岩戸から出ていただこうと、岩戸の前に集まり、いろいろ工夫をしました。その中で受けに受けたのが、天宇受売命の踊りです。古事記にこう書いてあります。
「神懸かりして、胸乳をかき出で裳緒を陰に押し垂れき。ここに高天原動みて、八百万の神共に咲ひき」(神懸かりして胸をはだけ、着ていたものを腰の下まで下げた。高天原はどよめき、八百万の神は大笑いした)
何事が起こったのかと天照大御神が岩戸に僅かな隙間を作り、さらに少し広げたときに、力持ちの神が一気に岩戸を引き開けて暗黒の世界に光を呼び戻したのだった。今流に言えば、畏れ多いが天宇受売命は”元祖・ストリッパー”とでもいおうか。神々を描いている古事記も、なかなか際どい事が書かれていて、面白いところが沢山あるのです。もっともトランス状態になっていたと思われるので、天宇受売命は、夢中で踊っているうちに、衣類をはぎ取ってしまったのでしょう。
猿田彦神社にお参りした後に、内宮に向かいました。外宮と内宮の間にあるので“間の山”と呼ばれる古市を経由する街道です。平安の昔からの街道だと言いますが、江戸時代には大繁盛の盛り場でした。
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③ 
五十鈴川に架かる宇治橋は木造の立派な橋です。材木を使って緩く中央が幾分、高くなった長い橋(長さ101.8㍍、幅8.42㍍)を作るには、船大工の技も使われていると聞きました。この橋は遷宮の4年前に架け替えられます。宇治橋の両側にある鳥居は神明鳥居で、内宮側は内宮正殿の、外側は外宮正殿の、それぞれ棟持柱だった古材が使われています。伊勢神宮は昔から質素で、リサイクルの草分けでした。棟持柱ばかりではなく、ほかの古材も日本中の修理を必要とする神社に分け与えられます。
この橋は一般的に「俗界と聖界の境界」といわれますが、正式には内宮側の広場は“内苑”であって次の鳥居を潜るところからが聖域になるのです。五十鈴川の縁へ下りて、手を洗うのはそのためでしょう。
外側の鳥居の前は綺麗に整備され、駐車場へのロータリーもこんもりとした植え込みになっていて、とかく雑然としがちな駐車場や、おはらい町のざわめきを遠ざけています。しかし、明治以前は例によって物乞いや芸人が参拝者から“お恵み”をせびる場所であったようです。女乞食につきまとわれ、銭を投げて通り過ぎた弥次喜多は、子供を使った芸人、さらには宇治橋の下に網を持った子供たちがたむろし、ゼニを網で受ける“芸?”で稼いでいるのを見て、おもしろがって銭を投げる弥次喜多です。
生活保護だ、救済だのといかにも情け深いようなことを言う“バラマキ”で、怠け者にまで投げ銭するのが昨今の政治です。昔は貧しいなりに自分の力で生きたのです。子供も踊ったり、芸を見せて飯の種としたのです。何でも可愛そうとバラマキ礼賛のマスコミなどありませんでした。「封建時代はけしからん時代」と決めつけるのは、誤った左翼思想でしょうか、どうかと思いますよ。そりゃ悪い面も沢山ありますが、人々はよく働きました。頑張って働き、思い切り楽しむ庶民の一面を見落としてはいけませんね。働いている人より余計に金を貰い、テレビ、冷蔵庫、車まで持ち、医療費はタダ、税金なしの生活保護者が「保護費を上げろ」という図々しさ。昔なら“乞食以下”。そういう人をさらに増長させるマスコミとは何でしょう。
内宮は外宮に比べると幾分、質素なように思えます。外宮の正殿はほとんど階段なしでしたが、内宮は階段を上ります。もちろん正殿は見えませんが、拝殿の作りなども外宮とほとんど見分けがつきません。神妙にお参りして鳥居を出ました。ところで最近驚くことがあります。大の大人、年配者が時々帽子をかぶったままお参りしているのをみかけるです。昭和の末頃までの大人は、食堂でも間違いなく帽子を取っていたし、食堂車では車掌さんも帽子を取って通り過ぎました。
神仏に祈る時に帽子をかぶるなど論外でしたが、日本人の大人や年配者が、伊勢神宮で帽子をかぶって柏手を打っても、神様はきっと,そんな人の願い事など、お気づきにならないでしょう。最近は外国人観光客も見よう見まねで帽子を取ります。お参りのマナーも、若い女性向きのガイドブックに書いてあるので妙な年寄りなどよりキチンとしている人が多いのです。 ♪今の世は 帽子かぶって 神頼み 御利益ばかりを 祈るオジサン(読み人知らず)。 |
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お伊勢参りのお土産は軽いものに限られました。今なら交通機関を上手に利用することで、ある程度のものは持ち帰れるし、宅配便の利用も出来ます。市かsh、昔はそうはいきません。普通の人は振り分け荷物で身の回りの僅かなものしか持てません。
「お伊勢参りのお土産は、荷物にならない伊勢音頭」などと遊んだ後にほざく人もいたようです。持ち帰れるのはお札やお守りが精一杯の所でしょう。しかし、今は溢れるような土産の山です。甘味はそこで食べるものだったのでしょうが、今はお土産の代表格になっています。
覗いてみたらいやその多いこと。伊勢の定番・赤福=店内写真・上=に始まり、団子、饅頭、などだけでも数えるのが面倒になるほどありました。ご託並べが続いたので、今回は土産特集と行きましょう。
伊勢には沢山の菓子類がある。お土産なのだろうが、食べることが出来る店もかなりある。元々は店で食べ、持って帰ることは希だったろうが、今は土産として持ち帰りが主流のようだ。
菓子の多くには、それぞれ曰く因縁が看板に書かれていたり、ちょっとした、しおりになっている。 「へんば餅」というのがあった。変な名前だな、と思ったけれど、書かれた台詞はこうだった。
「7代前の先祖が宮川のほとりでこの餅を商っていた。馬を引いてきた馬子たちが、この餅を食べて引き返して行く。そこで馬が戻っていくことから“返馬餅”と名付けた」
ありそうなことだけれど、本当のことは分からない。
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内宮から月讀宮、倭姫宮、神宮徴古館などを巡り、河崎の町、二見浦へと、回りました。お伊勢参りの人々のたどる一般ルートと言っても良いでしょう。ここは先ず、写真を見ていきます。
二見浦の夫婦岩は伊勢神宮を参拝した人たちが、大昔から立ち寄った所です。男岩、女岩の間を注連縄(しめ縄)で結んでいます。男岩の高さは9㍍、女岩は4㍍です。巻き付けたものを合わせると縄の長さは35㍍あるそうです。
この岩は対となって沖合660㍍にある興玉神石の鳥居と見なされているのです。日の出の遙拝所でもあります。注連縄は「結界の縄」とも呼ばれます。ここへ来る人が皆、お参りのために来るわけではなく、名所見物なのですが、縄の外側まで「太平神が寄りつく」のだそうです。こちらがハハ属性です。従って、注連縄が「結界の縄」となるのです。(右の絵は歌川国貞・二見浦曙の図)
 結界などと言うと、何年か前に流行した陰陽師・安倍清明を思い出します。2年前だったでしょうか、わざわざ清明の住んでいた家と生まれたとされる神社を見に京都まで出掛けました。だからといって信者でもありません。もの好きも極まる部類でしょう。何でも見たくなるとじっとしていられず、なるとの渦潮をテレビで見たすぐ後に、車で東名を走り、瀬戸内海の大鳴門橋を渡り、渦視をを見る観光船に乗ったこともあります。
本宮、外宮を初め伊勢・志摩にある125の神社を総称して「神宮」と言うそうです。天照大御神の内宮、豊受大御神を祀る外宮の境内にも別宮はありますが、ほかに沢山のお宮があるのです。 月讀宮を先ず参拝です。月讀尊は天照大御神の弟神で月の神様です。姉は太陽、弟は月というわけです。この神社には4棟の社がキチンと並んでいます。右の立て札に書いてありますが、 社は左から伊佐奈彌宮(いざなみのみや)、伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)と天照大御神の父母神、月讀尊の魂を祭神とする月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)です。 横一列、大きさも同じ、造りも同じです。親子おそろいで祀られているのです。
すぐ近くには倭姫宮(やまとひめのみや)がひっそりと森の中にあります。第11代崇仁天皇の皇女で内宮の創建まで天照大御神をお導きになって、各地を巡り、伊勢にその地を定め神宮造りに貢献されたという。
神宮徴古館
  神宮美術館 農業館
神宮徴古館には内宮正宮の模型や正宮を横から見た実物大の展示がある。実際にはお参りしても見ることが出来ない所を展示物として見ることが出来る。農業館には古来からの農具など、稲作りの伝統がはっきりと分かる展示物が並ぶ。 |
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伊勢の賑わいは大量の物資を消費しました。その物資などのかなりは、伊勢湾から勢田川を遡り、河崎の河岸まで運ばれてきました。河崎の土産物屋の主人は「伊勢の台所といわれて いたようです。船で運ばれてきた物資は、ここで陸揚げされ、伊勢へと陸路を運ばれていきました。ここから先は浅いので大きな船は入れなかったのです。今も倉庫が残っていますが、このあたりは船着き場で、沢山の倉庫が並んでいたようです」と言っていました。
伊勢音頭と似ているのですが、河崎音頭というのもあって、江戸時代は盛んに唄い、踊られたようです。今は昔の賑わいはありませんが、名残の倉庫や古い民家が旧街道に沿って続いています。
河崎の街で名物になっている豆腐料理屋さんへ立ち寄った後で、大岡越前守が3年間指揮を執った、山田奉行所の跡へ行き、すぐ近くに作られた山田奉行所記念館を見てきました。伊勢市に合併されるとき、旧村が作った記念館で、伊勢市御薗町(みその)にあります。出来てから2年ほどしか経っていない(2013年時点で)ので、真新しい立派な建物です。
畑の中に作られていますが、教育委員会の関係者でしょう、説明を買って出てくれた人の話だと、記念館に来るまでに、神社の横に「山田奉行所跡」の石碑がありましたが、そこからずっと奉行所の敷地だったようです。 「建物も5分の1くらいしか作ってありません。もっとずっと広く、前の畑は馬場だったし、堤防の下のたてものがあるところは、火薬庫だったようです」
小説の中には大岡越前守が山田奉行所にいる頃、将軍・吉宗がまだ少年で紀州藩の若様だった頃に、お供を振り切って行方不明になったのを、大岡忠相が探し出して、その後親しくなった、などと言うのもあるが、大岡忠相が山田奉行だったのは3年間だし、吉宗はその時既に江戸で既に将軍になっていたのだ。話は面白いが、吉宗を結果として助ける働きが多かったことから、いろいろと逸話が生まれているのだろう。働きが認められて、旗本だったのが、三河の大岡藩主にまで出世している。
記念館にはお白州も作ってある。本来は屋根があったらしいが、記念館の白州にはない。しかし、祖先が奉行所勤務だったという家には、当時の衣装などが保管・伝えられていて、それが展示されているのは面白かった。広々とした屋敷は特にこれと言った物はないけれど、大岡越前にあやかった記念館がこれまでなかったのが不思議なくらいだ。
三河の大名として終えた大岡忠相の墓は、神奈川県・茅ヶ崎にあります。
天の岩戸にもいってみました。伊勢には天照大御神が祀られているし、天宇受売命も猿田彦神社の境内に佐瑠女(さるめ)神社として祀られているので、なるほどと思いました。九州の宮崎がもっとも大きい「天の岩戸」で、神社も礼拝所もあります。
奈良の香具山山麓にも天の岩戸神社がありました。伊勢の天の岩戸は社殿はなく、水の湧き出す洞窟が、それだということで、鳥居は沢に沿った道に作られていました。神話の世界は広大で、どう信ずるかはその人の心の問題でしょう。
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志摩の半島に囲まれた湾内はとても静かです。真珠の養殖筏が浮かび、ひっそりとしています。しかし、外海、太平洋に面した海は、訪れた時こそ静かでしたが、荒い海で知られています。大王崎灯台は岩壁の上に立っています。灯台のある突端よりちょっと低いけれど、やはり海に向かって突き出ているところには、九鬼城の跡です。
室町時代に初めて作られ、鎌倉時代には広く知られるようになったようですが、なんと言っても、織田信長 に帰属。その後には豊臣秀吉の傘下で九鬼水軍として鳴らした本拠です。大王崎灯台は少し北の安乗埼にある安乗崎灯台とともに、太平洋を航海する船の大切な目印となってきました。
 志摩の海は海女さんでも有名です。入り組んだ海岸線は、岩場も多く貝や、甲殻類の宝庫です。大王崎から御座に向かって海岸線を走ると海女小屋があり、伊勢エビや貝類、イカなどを焼いて食べさせてくれます。安乗埼似近い的矢湾では下記の養殖が盛んで、シーズン、営業時間が限られていますが、取れたての牡蠣を食べられます。
 鳥羽には御木本真珠島があり、真珠に関する博物館は見応えがあります。水族館ではイルカのショーをやっていました。真珠島ではアトラクションとして海女の素潜りを実演しています。白い昔ながらの装束です。今の海女さんは皆、黒いウェットスーツです。
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現在の松坂は牛肉で有名だが、江戸時代には商人の街として栄えた。戦国時代に蒲生氏郷が城を築き「松坂」と命名。後に会津へと移るが松坂は伊勢湾の恵み、お伊勢参りの参宮街道と紀州藩の和歌山への和歌山街道が交わる場所で賑わい、商業も盛んで“伊勢商人”は力を伸ばした。間もなく江戸、大阪へ進出して活躍するようになった。小津清左衛門、三井高利などはその代表的存在。(写真・左は十軒長屋、城の警備役人が住んだ。右は松坂の一夜、宣長・左、と馬淵)
小津家で江戸進出を果たした三郎右衛門の子の一人が、国文学者、本居宣長だ。宣長は江戸時代を代表する4大文学者の一人で荷田春満(かだのみつまろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、平田篤胤(ひらたあつたね)とともに名を連ねている。荷田は賀茂を教え、賀茂は本居を導き、平田は本居の死後2年に本居の存在を知り“弟子”として名乗り、国文学の本流を主張したようだ。 (写真・右、商人の館、左は宣長72歳の図)
旨い牛肉を食うくらいしか考えていなかったが、松阪の街に泊まって歩いてみると、古い建物などが保存されていて、楽しく見て回れた。松坂城は「坂」と書き、町も明治までは土偏だったけれど、その後町の名がこざと偏の阪に変わり城だけが「坂」のままなのだという。築城時代からの坂をなぜ捨てたのか、分かりにくいが、今となってはどうでも良いことなのだろう。
小津家は「商人の館」として保存され、公開されている。三井家は東京へ引き払い広大な屋敷跡は今や小分けされて一般住宅が建っている。三井家の中心部分だけが保存されていて、大商人へと踏み出した三井高利の「産湯の井戸」や、記念碑などが閉鎖され、綺麗に整備された庭園の中に垣間見える。塀の隙間からまさに垣間見たのが、産湯の井戸の写真(左)だ。江戸で越後屋呉服店を開いたのは1673年。その後、江戸、大坂で両替商も手広く行って財をなした。
三井財閥として財界に君臨し、今でもその力を維持していると言って良いだろう。
本居宣長の生まれ、没した家は商人の多かった町の中(魚町)、小津家の敷地の一角にあったが、今は城跡へ移築されている。本居宣長記念館にはおびただしい量の文書(多くは重要文化財)などが、公開されている。移築された家も昔のままで、宣長が書斎として作った二階の部屋は、外から少し見えるように戸が開けられていた。
家の内部は漢方医でもあった宣長の診察室や居間、台所など二階を除くと見ることが出来る。そう広い家ではないので、土間を歩けば十分。宣長の家の前に敷かれている立派な石畳は、三井家が引き払うときに捨てた石畳を運んできたと聞いた。この家で宣長は万葉集、源氏物語を研究し、成功を収めていたが、賀茂真淵に「古事記」の解読を勧められ、それを成し遂げている。今、古事記を読めるのは、宣長の功績が大きい。(上の絵は吉野の旅の際に見た光景。左下は明和8年=1771年のおかげ参りの図)

松坂名物となっている松阪牛の老舗は、有名どころが2軒ある。一軒は近代的なホテルのロビーのような玄関で、黒い礼服に近い姿のボーイというか、案内者というかが立っている。ロビーにも制服の女性がいる。
「こりゃ、旅人がぶらりと寄るには敷居が高い」で、別の店へ。
こちらはあいにく休みだったが、古い建物で貫禄がある。当然のことに値段は相当で、接待や一生に一度、の人ならともかく、ぶらり旅人、にはチトお高い。そんなことを言っていると、名物を食いっぱぐれるが、旨いものは建物や豪華さではないなどと 言い訳して、御免被った。
古い街には木綿商人として財をなした長谷川家住宅もある。そのすぐ側、元は三井家の敷地だったという角地に、藍染めの松阪木綿直売所があった。昔は庶民の着るものだったが、今は藍染めの木綿となると手作りでもあり“高級品”に属する。小物からシャツ、前掛け、ワンピース、着物、反物などを販売していた。店の中には昔ながらの機織り機があり、希望者には織らせてくれる。
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