日本ロマンチック街道(1)





日本ロマンチック街道は、昭和62年(1987)小諸−軽井沢−草津−沼田を経て日光まで全長230km
が制定された。その後、周辺の市町村が参加、いつしかガッセ(ドイツ語で小径)ができ、長野県上田市
から栃木県宇都宮市までの全長350kmがロマンチック街道と称されるようになった。上信越高原国立公園、
日光国立公園を結ぶ横断路といえる。そこには浅間白根・日光白根などの火山が創りだした湖沼、湿原などのある
高原があり、今も残る城下町、温泉町、宿場町、門前町という変化に富んだ街道なのだ。

この名称はドイツのロマンチック街道に似た自然環境と、多くの作家や詩人が作品を残したところとしてロマンに満

ちた街道という意味を込めて命名された。街道が制定された翌年(1988)にはドイツのロマンチック街道協会との姉

妹街道を結んだ。

今回はこの350kmという長い街道を一度に走破したわけではない。ガッセ(小径)や街道から少し外れた場所へ寄り

道しながら、時間をかけて走ってみた。したがって地図上の街道を順序通りではないが、ガッセを含めてこの街道の

コース案内ができればと思っている。(以上を3回に分けて紹介する)


<コース>
草津−六合村−野反湖−長野原
行程 約40km



●旧・六合(くにむら)

町村合併で中之条町となった。

群馬県西北部吾妻川の支流白砂川に沿って入山、生須、小雨、太子、日影、赤岩の6つの小さい集落が点在する。

この標高600〜800mの6つの集落は山村合併にともない「六合村」とした。六合とは「古事記」からヒントを得てつけた

名前だと聞いた。文庫で調てみたが、六合の文字は1カ所にあったが、読み方は"ろくごう”だったので、出典は分からな

かった。
多くの伝説、民話、史話を持ち山村の原風景をいまに残す数少ない村である。


    


                             六合村を北から南へ流れる白砂川  庚申塔(塚)の中で際だつ生須の塔。3mを超す


●野反湖


    


草津温泉から野反湖へは約30kmの山道だ。草津から標高差約500mを下り、六合村の集落をいくつか過ぎながら、

再び標高約1,600mの野反湖を目指して上る。近道もあるが慣れないと分かりにくい。急カーブの連続である。

原生林の中を行く国道405号線は、夏や紅葉時は交通量も多いのでスピードとハンドルさばきには充分注意しよう。 

野反峠を越えると碧い水を讃えた野反湖畔へと出る。上信越高原国立公園の中にあり、周囲を2,000m級の山々に

囲まれた湖ところどころに池があり野反池と呼ばれていた。一見、天然湖のようだが、昭和31年(1956)東京電力

のダム湖として完成した人造湖なのだ。かつては湿原地帯で夏、湖面に向う斜面には、赤いレンゲツツジや黄色の

ニッコウキスゲが一面に咲く。

八間山側には、人の手によって栽培夏、湖面に向う斜面には、赤いレンゲツツジや黄色のニッコウキスゲが一面

に咲く。

、春には楚々とした薄紫のシラネアオイの花が咲き、7〜8月にかけては高山植物の女王コマクサの花も観ることが

できる。湖にはニジマス、イワナなどが放流され、釣り人を楽しませてくれる(入漁料1日1,000円)。湖の北側に

はキャンプ場があり、国道405号線はここでプッツリと切れる。この幻の国道は信州秋山郷の切明温泉までは、

険しい登山路があるだけ。明治の初めまでは、二を負わせた牛を連れて信州への経済路でも有った。

野反湖湖畔には遊歩道があり、白砂山の他、上信越国境の登山基地でもある。

   

野反湖の白根葵は6月に咲く                         アザミの密を吸う蝶

●花敷温泉・尻焼温泉

野反湖畔で行き止まりとなった国道405号線を戻ると、行きに目にしたはずの尻焼温泉方面へ標識に従ってV字のカーブ

を曲がる。最初に出合うのは、白砂川と長笹川の合流地点にある花敷温泉だ。

開湯伝説によると、源頼朝が猪狩をしていた時に発見したという。発見当時、桜の満開時期で湯の中が桜の花に覆われて

いたことから「花敷」の名が付いたとか。


旅館は現在1軒。大正11年10月19日に若山牧水が一夜の宿をとり「ひと夜寝て わかたち出つの泉の村に雪降りにけり」と

詠んだ開晴館は廃業して仕舞った。

 



花敷より少し奥に川そのものが温泉の尻焼温泉がある。長笹川の川底からわき出す温泉で、川の上下に堰きをつくって湯

が溜まるようになっている。


江戸時代に発見されたそうだが、急峻な山に阻まれ、旅館が開業(3軒)されたのは昭和にはいってから。昔は河原を掘っ

て尻だけ暖めたとか。お湯は温めだが、自然の川だから、日によって温度が違う。


尻焼温泉の露天風呂。川そのものが
湯で、まさに源泉掛け流し


河原に小さな湯小屋がある。ここは温泉が引かれていて熱めだ。


●道祖神と昔道


六合村・荷付場の道祖神(左)と観音堂


山村の原風景が残る六合村には、道祖神32もある。

他に野仏や馬頭観音、牛観音などが、昔から同じ場所にあったもの、あるいは古道から移されたものなど今も道端に立つ。

草津や長野原への道、遠く信濃や越後へと続いた古道は、そのほとんどが樹木や灌木、クマザサに埋まり、知る人もすくない。
道祖神は疫病や悪霊を村に入れないための神で、村の境界や道の辻などに祀られた。時には村の中にもあったが、それは守

神であり、子孫繁栄などの意味もあった。村にある多くが男女仲むつまじく手を取り合う双体道祖神で、大半は江戸末期に

建立されたものだという。


   

大仙の滝。落差20mで滝壺まで行ける(世立)。とっくりと杯を持った道祖神(天保3年と書かれていた)


●冬住みの里資料館

     

江戸後期には草津温泉には温泉旅館が建ちはじめ、宿を営む人々が草津の冬の酷寒を避けて、六合村で春を待った。

冬の間だけ移り住んだことから「冬住みの里」と呼ばれるようになった。現在残るのはここ市川家だけ。
館長であるご主人は、郵便局を定年退職した平成7年(1995)から大きな2階建ての家と2つの蔵を資料館として公開

している。
草津は江戸時代から武士や著名人など多くの人が訪れたところ。それらの著名人たちが残した書画、絵画、古文書

をはじめ、当時旅館で使用していた磁器や漆器と多数の逸品が展示されている。品々とともに市川家の大きな家を

支える巨木で造られた直径62mもある大黒柱≡上右=は見事。

                                               

●赤岩集落


    


長英をかくまったとも言われる湯本家。                           アカイワ集落を見る

日本の典型的な山村風景が広がる地区にあり、幕末から明治にかけて養蚕が営まれていたところ。その古い養蚕農家が現存し

ているだけではなく、土蔵や小屋などを残す。通りに沿って各敷地内の古い石垣や庭木があり、山村の静かな佇まいを見せて

いる。なかでも旧家「湯本家」は、木曽義仲の残党といわれ戦国時代から江戸にかけて、地方代々の有力者であった。

江戸期には漢方医学の医者を輩出した。現在の建物は200年前に建造されたもの。シーボルトに学んだ蘭学者であり医学者で

もあったが、幕府の政策を批判し投獄され、後に脱獄した高野長英をかくまったとされる「長英の間」が残されている。


赤岩集落と周辺の農地、御堂、神社、山林などを含めて平成18年(2006)重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

                           


長英をかくまった赤岩の湯本家

●入山の豆腐屋と蕎麦屋

「道の駅」を除いて食事やお茶を楽しむスポットは、野反湖方面へ向かう入山地区引沼にある豆腐屋「喜久や」

と蕎麦屋「野のや」の2軒しかない。2つの店は国道405号線を挟んで向かい合う。
どちらも地元産の材料だけを使う。六合村産の蕎麦、近くでマイタケ工場も経営する主人山本幸人さんは自ら蕎麦も打つ。

奥さんとふたりで、季節の山菜も取り入れた材料のみを使う天ぷら蕎麦が自慢。六合村特産の花インゲンを使った大福や

コーヒーも味わえる


 

中之条から六合村を通って草津を結ぶ標高1,088mの峠。「上野(かみつけ)の草津の湯より沢渡(さわたり)

の湯越ゆる路 名も寂し暮坂峠」若山牧水は大正11年10月20日、草津、小雨、暮坂峠を越えて沢渡へ向かった。
この峠には、昭和32年(1957)に造られた「長かりしけふの山路 楽しかりしけふの山路」と『枯野の旅』の一

節の碑とマントを羽織った牧水像が建つ。牧水は峠の景観に感動したというが、いまは樹木に覆われた舗装道路

とレストランなどで情緒はない。峠越えは紅葉シーズンは見事だ。



  

暮坂高原の花楽の里。広々とした
山間の高原だ


●長野原・吾妻渓谷と川原湯温泉



六合村と草津への分岐点となる長野原町周辺から川原湯温泉までは、計画着工してから半世紀も経つ八ッ場ダムの

建設中で、片側一車線などの交通規制がある。完成するまでまだ

7〜8年を要するらしい。最初の建設費の4〜5倍の一兆円がかかるとして何度も問題になりながらも造り続けるダムと

しても有名なところ。
渓谷美を誇る吾妻渓谷の半分が水の中へと消える。そして「湯かけ祭り」で有名な川原湯温泉の半分までがダムに沈む。

温泉の源泉は、ボーリングされ山の上へ運ばれ、旅館も移転を余儀なくされる。紅葉や新緑の美しい吾妻渓谷の大半

を失う前に、ぜひ訪れておきたいものである。

  

 


            川原湯ドライブインも湖底に沈んだ。風情のある茅葺きの古民家だった。

      

  


湯の神を祀った神社も

  

日本ロマンチック街道2)



群馬県吾妻中之条から沼田、片品村、日光を経て宇都宮までの約150km、中之条から四万、沢渡温泉往復を加えて

200km

余りのコースである。
かつての交通の要であった中之条から、草津温泉と並んで群馬県では名高い四万温泉や、いまに残る養蚕農家、

民話の路を

辿りながら沼田市へと下る。
国道17号線を越え、農業の盛んな川場村を通り抜ける。片品村は尾瀬への道と分かれ国道120号線金精峠へと

上る。男体山、

中禅寺湖と日光国立公園の景観を眺めながらいろは坂を下り、長い杉並木を走り抜けて宇都宮へのドライブだ。




<コース>
渋川−(国道353号線)−中之条−沢渡温泉・四万温泉往復−中之条−(国道145号線)−高山村−沼田−(国道120号線)

−日光

国立公園−今市−(国道119号線)−宇都宮
行程約200km

●中之条町歴史民俗資料館

渋川より約25km、草津温泉への道の途中にあり、吾妻側沿いの開けた場所にある。昔から交通の要衝であった。残念ながら

現在は、それらの歴史遺産は少ないが、古い神社仏閣など、かつての跡を残す町である。


町のほぼ中央にある
資料館の建物は、明治18年(1889)に開校された旧吾妻第三小学校校舎の保存修理を行い昭和57年(1982)

、生まれ変わったもの。


西洋風の白壁は明治時代の洋風学校そのままで、内部には原始から近世までの資料が約6,000点も集められ展示されている。

1階は当時の教室のまま、明治から戦後のころまで使われた机や椅子、教科書教材などが展示され、見学者の中には懐かしく思

い出される人も多いようだ。見学者が少ないときには、館長自ら案内してくれることもある。

渋川より約25km、草津温泉への道の途中にあり、吾妻側沿いの開けた場所にある。昔から交通の要衝であった。残念ながら

現在は、それらの歴史遺産は少ないが、古い神社仏閣など、かつての跡を残す町である。
町のほぼ中央にある
資料館の建物は、明治18年(1889)に開校された旧吾妻第三小学校校舎の保存修理を行い昭和57年(1982)

、生まれ変わったもの。
西洋風の白壁は明治時代の洋風学校そのままで、内部には原始から近世までの資料が約6,000点も集められ展示されている。

1階は当時の教室のまま、明治から戦後のころまで使われた机や椅子、教科書教材などが展示され、見学者の中には懐かしく思

い出される人も多いようだ。見学者が少ないときには、館長自ら案内してくれることもある。



 


資料館になっている旧・吾妻第三小学校


●中之条町の遺産

町の中心部にある「道路元標」は大正8年(1919)に道路法が定められ、各市町村に一つ建てることとされた。ここを起点とし

て各市町村との距離を測った。
当時、群馬県には206の町村があったが、現在残されているものは40基前後と聞く。中之条町道路元標も残った一つ。幅25cm、

高さ30cmと意外に小さいものだ。

中之条の道路元標

●町田家住宅


   


昔の宿の風情を残す「白井屋」。いまは営業していない町田家。江戸末期の建物

町の中を走る国道に沿って建つ。江戸時代末期の建物で、文化年間には総代の役職にも就いた町屈指の旧家。
一方、
白井屋は、簡易裁判所前にある客室5部屋の旅館。明治初め中之条は町役場、税務署、裁判所、登記所などが

置かれる

官庁街となり,隣の町村から訪れる人々を泊めた。通りに面した格子戸や「旅人宿」が当時の宿の面影をのこす。

どちらも何

も目印も看板もな

いので、興味のある人は町のひとに尋ねるとよい


●富沢住宅


富沢住宅。大型養蚕農家

町の中心部から北へ約15km、中之条市はずれの大道にある住宅。この地方の名主を勤めた旧家で江戸末期の建築。

構造は、木造2階建て、

葺き、入母屋造りの大型民家。建築の様式は養蚕農家で2階は養蚕に使われた。1階の半分を占める土間には4頭もの馬が飼

えるようになっ

ている。馬を使った運送業も営んでいたという。
大道は、金井宿(渋川)と須川宿(新治村)を結ぶ三国街道の脇往還であった。
吾妻川の増水などで本道が通れない時は、越後の米や味噌などを運ぶ人たちが、この
富沢家の前を通過した。国指定重要

文化財だ。


●囀石(しゃべりいし)



落雷にも負けずモミの巨木

富沢住宅のある大道の隣に「しゃべり石」という珍しい地名の村がある。樹高37mというモミの巨木で知られているが、

落雷の火災により、幹の中は空洞となってしまった。

しかし、樹勢は旺盛で南北18mもの枝を伸ばしている。「東の横綱」ともいわれるモミの木から100mほど下ったところに


「囀石」という

巨岩がある。この地方には「吾妻七ツ石」の民話があり、囀石もその一つ。
「その昔、この巨岩は、いまの倍もある大きさだった。この岩は敵討ちの旅をする人に、敵の居場所を教えたり、

若い女性をからかったりと、とてもうるさかった。そこで侍が刀で2つに切った。2つになった石の一方は山を越え数キロ

南の塩平村に飛んだ。悪いことに飛んだ石は口のある方だったので、ここでもうるさくしゃべり悪さをした」という。


   


しゃべり石。祠が上にある。   しゃべり石の片割れ?といわれる「割れ石」(塩平)

                 

面白い話だったので、口のある片割れ石を探そうと塩平へと走った。畑仕事をしていた老人に尋ねると、こちらでは

「割れ石」というのだと教えてくれた。

●沢渡温泉と四万温泉


沢渡温泉は暮坂峠

を越えて草津に通じる要路であり、酸性の強い草津温泉で養生した人が、帰りに立ち寄ることが多かったという。有含硫化

水素泉の

無色透明の柔らかい湯として「草津の仕上げ湯」といわれていた。
古くは木曽義仲、源頼朝から以後、武士だけでなく高野長英(蘭学者)、文学者・歌人の若山牧水ら多くの文人墨客にも愛

された歴史ある温泉だ。



   

                          積善館は四万温泉の名物でもある

四万の甌穴。水が深い穴を
岩に穿っている

   

四万(しま)温泉は草津、伊香保とともに上毛三名湯に数えられる温泉。「四万、よんまんの病に効く」といわれ、

鎌倉時代から知られた温泉である。

上信越国立公園の中にあり、三方を山に囲まれた海抜700mの位置にある。
元禄4年(1691)に湯小屋を建てたのがはじまりという積善館は昭和5年(1930)3階建て、前身・2階建ての山荘は昭和

11年に建てられた。1階の浴場は、大正ロマネスク様式のアーチ形の窓を備えている。(国登録有形文化財


四万川の奥、日向見温泉

にある「薬師堂」はなかなか治らない病気を治し、苦しみから救ってくれると信じられている薬師瑠璃光如来が

安置されている。(国指定重要文化財


  

四万温泉の奥、日向見薬師堂は国指定の重文              中山三島神社の杉並木(高山村)


●川場田園プラザ

ブルーベリー


沼田市街をパスして川場村へ。武尊山を背景に田園地帯が広がる村は、いま脚光を浴びている。県道64号線沿いの

「川場田園プラザ」は関東では人気ランキングトップ、4年連続を記録している「道の駅」なのである。「道の駅」

は誰でも自由に安心立ち寄れる休憩所だ。(最近はキャンピングカーが宿泊地として長時間駐車するため、

問題にされはじめた)。ただ、トイレや売店だけだった「道の駅」も、人々の価値観の多様化により、それぞれ

個性的で面白い空間を演出するようになってきた。

平成10年に完成したという田園プラザは、面積5ヘクタールの敷地に地元農産物を扱うファマーズマーケットをはじめ、

ビール工房、ブルーベリーを無料で食べ放題という期間もある。ゆったりしたスペースや、公園のような雰囲気が人気の

ミート工房などそれぞれ独立した建物で、こだわりの特産物を作っている。その他、レストラン、そば処もあり、

敷地内に植えられた秘密かもしれない。


●吹割の滝


     


岩盤が大きく割れ、周囲から水が落ち込む吹割の滝    吹割の滝全景

 

片品川の中流域吹割渓谷にある。国道沿いに駐車場やみやげ物店があり、そこから100段近い階段を下る。幅約30m、

高さ約7mの滝だが、見上げるのではなく、の落ちる滝を覗くのだ。V字型に浸食された岩の割れ目に川の水が

吸い込まれるように流れちていく。

国の天然記念物に指定されている。手摺りも柵もないので水際には近づかないこと。

  

品村には国の重要無形民族文化財の         片品村のモロコシ街道

「猿追い祭り」がある
                 

    

●丸沼高原と日光白根山

日光白根山(標高2,578m)は奥白根を中心に前白根、五色山、など外輪山を有する活火山で、昭和27年が最後の噴火

である。
丸沼高原から奥白根山頂付近までロープウェイがある。ロープウェイ終点には「天空の足湯」(無料)がある。この

2,000m山頂付近までの日光白根ロープウェイは片道15分、

                   


ロープウェイから見る日光白根山                              ロープウェイ終点の足湯


●日光国立公園


   


日光白根山登山口の二荒山神社                        男体山(二荒山)登山口。山がご神体

古くから信仰の山として名高い男体山(標高2,484m)の山麓に広がる高原、湖沼や壮大な瀑布、そして渓谷の自然景観は、

四季それぞれの彩りを添え、訪れる人に感動を与えてくれる。
また、世界遺産にも登録された東照宮、輪王寺

をはじめ、数々の神社仏閣や歴史建造物もある。「日光を見なければ結構とはいわない」といわれるほど日本屈指の観光地なのである。

日光・二荒山神社

日光・二荒山神社 


濃霧に覆われた金精峠を越えると、少し視界が広がりだした。湯の湖畔へ着く頃は雨も止んでキリの中から湯の児

が姿を見せ始めていた。火山による堰き止め湖だ。湖水に立つ数本の白い枯れた木や、葦に似た草の中にボートが浮かぶ。

湖畔には日光湯元温泉がある。

    

 湯の児へと流入する渓流     湯本温泉   

●戦場ヶ原

男体山(別名 二荒山ふたらさん)の西側、標高約1,400mに広がる平坦地。男体山の噴火によってできた湖沼群だ

ったが、長年にわたり土砂が流入し、湿原になった。その昔、男体山と赤城山の神様が争ったという伝説から

戦場ヶ原名が付いた。さまざまな動植物の宝庫として知られる。木道の遊歩道がある。


  
戦場ヶ原                                  戦場ヶ原から男体山

●中禅寺湖

同じ男体山の堰き止め湖、その母体ともいえる男体山を湖面に映す、標高1,250mという高地に

ある日本を代表する湖のひとつだ。湖上にはヒメマスやニジマス釣り、遊覧船での湖上巡りができる。

湖畔には、湖の名の由来となった中禅寺が有る。


    
男体山(二荒山)が似ず海に影を落とす。                    中禅寺


●竜頭の滝・華厳の滝・裏目の滝

竜頭の滝は、男体山の活動末期に噴出した軽石が形成したもの。大岩を噛むよう豪快な流れから竜の頭という名が付いた。
国道から少し離れた駐車場から約500m、渓谷沿いを歩く。かつては滝の裏側から水の落ちるさまを見ることができたが、

明治35年(1902)滝の上部が崩壊し、いまは裏側から滝を見ることはできない。


       

華厳の滝                              竜頭の滝


華厳の滝

は中禅寺湖から流れる唯一の流出口、大谷川にある滝。高さ97mの絶壁から落下、中段部分から十二滝と呼ばれる

伏流水が流れ落ちる。直下滝と相まって壮大な景観をみせている。轟音とともに豪快に上がる水しぶきに、虹を見

ることもある。

華厳の滝を後に、いろは坂を下り日光街道(国道119号線)を辿り
宇都宮市内へと入る。ロマンチック街道の終点で

あり、始まりでもある宇都宮市内には、戊辰戦争(1868)の戦火で失われた

宇都宮城の本丸の土塁と櫓が平成19年(2007)復元されていた。

   

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ロマンチック街道の3


浅間山と嬬恋のキャベツ畑

日本ロマンチック街道が信州・】上田と栃木・宇都宮を結ぶ320`。一本の街道ではなく、いくつもの支線に入り、ドライブ旅行
する人の興味をつなぐようになっている。このレポートも一気に走り抜けたものではなく、時にはかなり本線を離れてのlドライ
ブだった。季節も異なり、様相も変わるが、楽しいドライブコースではある。3回目、最終回は小諸から標高2000bの高峰高原
を通って嬬恋へ。打たーん気味に嬬恋から軽井沢掲揚の小諸のドライブ。




<コース>
小諸-(観光道路チェリーパークライン)-高峰高原-(浅間広域農道)-六里ヶ原-鎌原-(国道144号線)-羽根尾-(国道146号線)-浅間越-(白糸ハイランドウェイ有料道路)-白糸の滝・旧軽井沢-
軽井沢-(国道18号線)-追分宿-(旧中山道)-小田井宿-小諸
行程約150km



●小諸城址懐古園

小諸城は平安時代、小室太郎光兼をルーツに、後に信玄や秀吉の武将により、天下に類のない堅固な城が完成された。

信玄が、重臣の山本勘助に命じて城郭を整備し

大城としたのが、小諸城の原型となった。武田氏滅亡後、織田信長の領国となったが、やがて徳川家康の領有となり

、江戸時代には要衝の藩領として徳川譜代が治めた城である。

明治4年(1871)廃藩とともに役割を終え、明治13年(1880)小諸藩の旧士族により本丸跡に神社は祀られ、『懐古園』

と名付けられた。今の公園になったのは大正15年(1926年)。


  
懐古園と案内板


正面は一の丸へ。懐古園で最も落ち着く場所

●三の門

元和元年(1615)に創建されたが、「寛保戌の満水」と呼ばれる大洪水(1742年)で流失し、現在の門は明和2~3年

(1765~1766)

に再建されたもの。

門の正面には「懐古園」という扁額が掲げられている。三の門は懐古園の象徴でもある

。国指定重要文化財。城郭内には、二の丸跡や黒門橋、黒門跡、馬場そして三の丸跡などがあり、苔むした

石垣が往時を語る。本丸御殿があったところには、懐古神社が祀られている。周辺には勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟

らの碑が建てられている。

   

内側からの三の門。             懐古神社。懐古園内にある
「懐古園」の額がある                                       


●島崎藤村と小諸


明治32年(1899)、英語と国語の教師として 恩師木村熊二に招かれて小諸義塾に赴任。ここで函館の網問屋秦慶治の三女冬子

と結婚し、この地で6年余りを過ごした。

その間に「雲」「千曲川スケッチ」や大作「破戒」が起稿された。
懐古園内には、昭和2年(1927)、藤村の友人たちによって「千曲川旅情のうた」の詩碑が建てられた。碑面の詩は藤村の自書。
「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ・・・」と昔、暗記させられた詩が頭に浮かぶ。またメロディもついていて、石垣の

下で草笛を吹いていた人がいたことも

思い出された。
懐古園の水の手展望台に上ると、千曲川が見下ろせる。だが、残念なことに無粋なダムに情緒もない。
城下町は、仙石秀久によって整備され、城を中心に武家地を設け、北国街道沿いに付近の村々の住民を移住させて城下発展に

努めた。江戸時代街道の宿場町として

も栄えた。



       

藤村資料館                                    懐古園から千曲川

小諸市内からチェリーパークラインと名付けられた観光道路をときには急カーブを切りながら約30分上りつめると、突然

「高峰高原ホテル」の大きな建物が目に入る。

浅間山の西に続く標高約2,000mの車坂峠を中心になだらかな高原が広がる。
峠に立つと、眼下に小諸市や千曲川、遠くは富士山、八ヶ岳から北アルプスまで一望できるというが、あいにくの霧の中。

一帯は湯ノ丸・高峰自然休養林に属し、春の芽吹き、初夏の新緑、秋の紅葉、そして夏には池の平湿原に咲く高山植物の

花々が、人々を迎えてくれる。

                  高峰高原を散策する人

    


        山の神の祠と鳥居(車坂峠)                     車坂峠。今は高峰高原と呼ばれる


●嬬恋村

名前の由来は、日本武尊が吾妻山の鳥居峠に立ち、亡き妻・弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び「嗚呼わが妻よ」

と嘆き悲しんだ、という伝説によるもの。
戦国時代には武田・真田氏の領地であったが、江戸時代は幕府直轄地となり、北国街道の往還として関所や宿場とし

て人や馬の往来があった。
天明3年(1783)の“浅間焼け”と呼ばれる浅間山の大噴火で村は壊滅状態となった。



●大キャベツ畑


キャベツ畑は壮観だ


「高原キャベツ」で有名な嬬恋村は、標高700m~1,400mに広がる高原だ。浅間山や四阿山(標高2,354m)の裾野は、

8、9月の収穫時には、ゆるやかな斜面一面がキャベツの緑に埋まる。
明治末ごろから自家用として栽培されていたが、昭和初期に長野県からキャベツが本格的に導入された。そして戦後

の開拓者によって大規模栽培が行われブランド「嬬恋キャベツ」が生まれた。ただ最近は、輸送に強く、長持ちする

よう品質改良されたところもあって、以前のような柔らかさと甘みが欠けたようだ。

広大なキャベツ畑の中を立派な農道が走る。浅間山を眺めるポイントとして最高の「パノラマライン」は、どういう

訳か、地図上には、細い線で一般道路として扱われていない。そして素晴らしいキャベツ畑には、ン王役の影響だろ

うか、不思議にも一匹の蝶々も飛んでいない。



●浅間山の噴火と観音堂・鎌原(かんばら)


     お堂まで逃げた人は助かり、この階段のすぐ下で火砕流にのまれた人もいる   鎌原観音堂では地元の人が休まずにお籠もり


鎌原は天明3年(1783)7月8日に噴火した火口より13kmのところにある。鎌原は浅間山の大噴火で火砕流に襲われ、当時の村民

570人のうち477名の命が奪われた。

このとき火砕流に気づき、観音堂へ逃れたどり着いた93名のみが奇跡的に助かった。

当時、観音堂への石段は150段余りあったという。かなり高いところにあったお堂だ。押し寄せる溶岩は石段を僅か15段だけ残し

て止まった。


昭和54年(1979)、発掘調査の結果、残された15段の石段のすぐ下で女性2名の遺体が発見された。いまでも残る15段の石段が

生死を分けたことから、村人を守った奇跡の地として信仰されている。いまでも、村人が交替で観音堂を訪れる人々に、お茶を

振る舞ってくれる。


観音堂は天明の噴火より70年も前の建物だと、世話役の村人が教えてくれた。また、囲炉裏端に上がり込んでお茶を頂く、

このすすだらけの建物も似たような年月を経て、

こうして参拝客をもてなしているのだと、老人たちは楽しそうに寄り添っていた。


●六里ヶ原

その昔、源頼朝の狩り場でもあったといわれている浅間の北山麓。その一角に「六里ヶ原の基点観音と道しるべ観音」がある。

周囲は北軽井沢別荘地であり、特別な表示板もないので多くの車は素通りしていく。

ここは江戸時代交通の要所であった。天明の大噴火で火砕流が流れ、道は荒廃し、交通の難所となった。


旅人の苦労を見かねた分去茶屋の助四郎の提案で、六里ヶ原

道しるべとしての観音仏が作られた。これを基点観音とし、沓掛、大笹、狩宿の3方向に、それぞれ33体ずつ110mごとに設置。

100体あった観音仏のうち、現在は3分の1ほど残ったものが桜岩地蔵境内に集められている。


●鬼押出し園

浅間大噴火で生まれた溶岩群。火口で鬼があばれて岩を押し出した、という当時の人々の伝えから付いた名前だ。全長5km、

幅最大で2kmの巨大な溶岩群。

近くにある廃墟となった展望台は、近づき難い不気味さで、崩れるまま放置されている。景観を損なうばかりか、危険なの

でかたづけてもらいたいものである。

      

浅間高原には何カ所も、遊べるところがある。オトナも子供も楽しめる。


●白糸の滝


軽井沢〜鬼押出し間では定番の観光スポット。国道146号線と分かれ、有料道路の白糸ハイランドウェイを辿ると道路沿いに長い駐車場があり、5分ほど歩く。地下水が岩肌から湧き出す。それが細かい糸状に幾筋に

もなって流れ落ちる。透明度は高く大雨が降っても滝の水は濁らない。夏は自然のクーラー、秋は紅葉が見事だ。

●旧軽井沢



旧軽井沢といえば高級リゾート地の代名詞のようなところであった。唐松林の細い道が縦横に続き、洋館風の
別荘が樹木を通して望まれ、静かな雰囲気が漂っていた。

いまは旧三笠ホテルや万平ホテルなどが、その面影を残しとどめるだけ。木立の狭い道は、車がふさぎ、
自転車が列をなす。ここは別荘地ではなく観光地なのだ。

旧軽井沢のメインストリートは、原宿の竹下通りと見まがうほどだ。しかし、軽井沢ということで高原の雰
囲気を持つみやげもの店が軒を連ね
、にんきはある。

   


  
         旧・三笠ホテル と  万平ホテル          

●追分宿

JR軽井沢駅前から国道18号線を小諸方面へ。中軽井沢を過ぎると、間もなく日本橋から40番目にあたる

一里塚を見る。一里塚の脇から旧中山道が走る。

僅か数百メートルの短い旧街道だが、北国街道との分岐点として栄えた宿場町の風情を残す。
室町時代の様式が残された「浅間神社」。昭和55年(1980)に復元された「高札場」、古い建造物の

「枡形茶屋」や老舗旅館などが佇む。この昔の面影を残す町並みには「堀辰雄文学記念館」や

「追分宿郷土館」などもある。

      
                                                                        江戸へ39里。追分の一里塚

   

左・中山道、右・北国街道


●追分分去れ(おいわけわかされ)の道しるべ

右は北国街道、左は中山道とある分岐点は形は昔のままだが、まるで中州にとり残されたようなところにある。

道しるべの他、木立の中に素朴な石仏、

馬頭観音や赤子を抱いた石仏などがひっそりと建っている。
国道18号線を避け、是より旧中山道、小田井宿を経て小諸へと戻る