左は20代の頃、右は釈放直後の重信房子

1972年5月31日。私とカメラマンの中山宏亮君は、アフリカザンビークの首都、ロレンソマルケス

(現・マプート)にいた。アフリカ大陸の南端から、ノルウェーの北端、ノールキャップまでクルマで走るため

、日本から送ったマークⅡをロレンソマルケスの港で受けとるために滞在していた。

船が遅れて既に1週間ほど同じホテルにいたので、滞在客やホテルの従業員とは顔なじみだった。


食堂へ降りていき顔見知りに声をかけた。

「おはよう。元気ですか」

相手は何やら難しい顔をして横を向いた。他の客もホテルの従業員もシラーっとしている。

「変だぜ。何かあったのかな」

間もなく分かった。テーブルの上に広げられていた新聞には、イスラエル・ロッド空港の乱射事件

が大きな活字と写真で報じられていた。


5月30日に日本人3人が空港ロビーや駐機場でVZ58自動小銃をを乱射。26人が死亡、73人が重

軽傷を負った。襲撃したのは奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人で、パレスチナ過激派のテロ

リストが、自分たちは警戒が厳しく、襲撃は無理なので、日本人テロリストに襲撃を依頼したのだ

った。3人の日本人はアラブ・テロリストの義勇兵の立場だったという。奥平は射殺され、安田は手

榴弾で自爆。ターミナルの外へ出た岡本は逮捕された。この自爆を契機に、自殺が禁じられてい

るイスラム過激派は、戒律を都合良く解釈。「ジハード」の名の下に、爆薬を身につけて突撃する

“自殺行為”を、聖戦と位置づける考えの基にしたと言う説もある。


この時日本赤軍はまだ組織が固まっていなかったが、いくつかのグループで行動していた。しかし

この事件をきっかけに、重信房子はアラブ過激派の
PFLP幹部と共同声明を出した。


「この日を以て”日本赤軍結成の日”とする」

日本の刑務所に収監され、20年の刑をを終えて重信が出所したのは、奇しくもロッド空港襲撃事件から丁度50年目に当たる2023年。


赤軍結成当時とみられる写真(msn)


ロッド空港で事件が発生したとき、ババはヨルダンから陸路をバスでシリアに向かっていた。

「シリア国境で私だけバスから降ろされ、パスポートの検査に始まり、所持品を一つ一つ確かめて

いた。なんで一人だけ細かいものまで検査するのかと思ったけど、後でイスラエルの事件を聴い

たので、無理もないと納得よ」


アラビアのロレンス
の辿ったルートをトレースするのが、この時のババの旅だった。現地に駐在してい

た日本人は、時々訪ねてくる赤軍派の日本人から、風呂へ入ったり、食事をねだったりされたという

愚痴も聞いたという。

重信がクルマの後部座席に座り、マスクをかけて出所するのをVで観ながら、ババは若かった頃のいささ

か無茶な旅を思い返した。

「50年前の戦いで人質を取るなど、見ず知らずの無辜の人達に被害を与えたこともあった。お詫び

し、今後は病気の治療に専念します」と重信は語っていたが、日本赤軍メンバーの数人はまだ逃亡生活

を送っているし(2024年)、岡本公三は捕虜交換でレバノンへ移り、アパートで生活しているという。

”老いたる女テロリスト”を見て、一つの時代の終わりを感じている。

しかし、ウクライナに突如、攻め込んだロシア軍。ハマスとの戦いで、無差別常置で、パレスチナ人を殺し

まくるイスラエル。
そんな世界に身を置いて、しみじみと思うのは、生きた時代、旅した時代はかりそめで

はあっても、ある程度“平和な時代”だったと
いうことだろう。