福島・会津エリアをロングドライブ(2)



蔵の街喜多方と宿場町大内宿

飯豊山系を源流とする河川と、その伏流水から良質な水に恵まれた喜多方は、人口約4万弱の町に2,000棟を超える蔵がある。醸造蔵、貯蔵蔵、見世蔵、蔵座敷と用途もさまざまなら、素材も漆喰やレンガなども多様だ。
高層ビルもない、昔ながらのしもた屋や、2階建ての屋根の連なる町は落ち着いた趣きがある。
蔵の風景めぐりのあとは、全国的に有名な“喜多方ラーメン”をすすって一休み。
喜多方から会津若松を経て約50km南、かつての会津西街道沿いに残された茅葺き屋根が並ぶ「大内宿」を訪ねた。

 

 

 

 

 

 




<コース>
喜多方市街-(国道121号線)-会津若松経由-大内宿
全行程 60km



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○蔵の街・喜多方

平成18年(2006)1月、喜多方市は周辺の2町2村と合併、それに伴い蔵も約2,600棟と数も増えた。喜多方市はかつて「北方(きたかた)」と呼ばれていた。若松城下と米沢を結ぶ街道であり、江戸へ運ぶ物資の集散地として栄えた。
大火の多かった北方は、蔵や家屋を火災に強い土蔵造りが建てられた。「男40歳にして蔵の一つも建てられないとは・・・」と「うだつが上がらない」の言葉と同じ意味だったとか。それだけにこの町には蔵が多い。

 


日本人にはとてもわかりにくい案内板


がっしりした蔵。今も使われている

 

最初に町の中心部にある「蔵のまち観光案内所」を訪ねよう。近くには1時間200円の有料駐車場もある。みどころの蔵はJR喜多方駅から北へ延びる中央通りを中心に多くあるので、徒歩で観てまわることもできる。


●安勝寺


お寺も蔵造り

本堂が土蔵造りという喜多方ならではの寺。白い漆喰の壁、黒い瓦屋根のどっしりとした造り。
室町中期の創建だが、明治13年(1880)の大火で旧本堂は焼失したため、明治29年(1896)、現在の土蔵造りの本堂が造られた。
全国的にも珍しい蔵の寺である。


●大和川酒蔵北方風土館


寛政2年(1790)に創業したという老舗酒造所。平成2年(1990)酒造蔵を郊外に新設し、旧蔵をそのままに開放。土蔵の中では、昔の酒造り方法や大きな酒樽や道具を展示、3つの蔵には、時代別に変わってきた酒造りや貯蔵方法など、係員が説明してくれる。
蔵内には良質な酒造りには欠かせない豊富な水が湧き、川となって敷地内を流れている。この水は霊峰飯豊山の伏流水だ。一通り見学した後は、美味しい米と水に恵まれた喜多方の酒の試飲コーナーと売店がある。もちろんドライバーの試飲は禁止だ。
/見学無料、TEL 0241-22-2886

 


喜多方に造り酒屋は多い


酒蔵見物の後はお土産の酒


●島三商店


蔵は家の裏へ続いている
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

中央通りにある「蔵のまち観光案内所」に隣接する「島三商店」は間口が狭く、通りからは、その見世蔵と座敷しか見えない。見世蔵の横にある門をくぐると、奥行きの深い庭に座敷蔵、味噌・醤油蔵、商品蔵や塩蔵と9棟にのぼる重厚な蔵が競い合うように並ぶ。
明治37年(1904)に造られたレンガ造りの座敷蔵は外見は洋風だが内部は日本間になっている。


●嶋新商店


島三商店と通りをはさんだ反対側にある。つい最近まで見世蔵造りの雑貨店だったが、いまは主人の高齢化で店は閉じられている。脇の狭い通路を抜けると長さ38間(約70m)の巨大な蔵がある。
明治15年(1883)建築。竹製品などを大量に扱っていた荒物屋だったため、火事から商品を守るための蔵であった。最初は2棟だったが、後で1棟を足し、3棟を屋根で一つにつないだもの。外見は1つの蔵だが、3つ黒漆喰の重い扉が、3つの蔵であったことを見せてくれる。


島新の大きな商品蔵

 


荒物屋の店先

このように大きな蔵を必要としたのは、この地方の冬季が雪に閉ざされ、農家の副業として生産されるザル、かご、むしろや桶など多くの日常雑貨品を納めておくためである。

残念だがこの2つの商店の見事な蔵は、普段は一般公開していない。


●甲斐本家蔵屋敷

典型的な座敷蔵建築で、国の有形文化財に指定されている。
甲斐家は幕末に初代が酒造りをはじめ、三代目が麹製造、製糸工場と手を広げ財をなし、四代目は味噌、醤油の醸造業を営んできた。現在の蔵座敷は四代目が大正6年、各地の名家を見て歩き、その上で着工、7年余りの歳月をかけて完成したもの。座敷の内部は東京・深川の木場から、檜、紫檀、黒檀な選りすぐりの銘木が取り寄せられ、広間、書院など精緻を極めた技工を用いて造られている。
また見世蔵の中央には、欅の大木を削って造られた螺旋状の吊り階段があり、当時の職人の優れた技術に驚かされる。
甲斐家に代々伝わる陶器、漆器など美術工芸品も展示されている。
/入館料 400円、TEL 0241-22-0001


ケヤキの螺旋階段

 


蔵座敷。廊下は厚いケヤキ


商品は蔵の中に綺麗に展示されていた

 

町にはまだまだ立派な蔵が沢山並ぶ。見世蔵の多くは用品や雑貨、薬屋など普通の店として営業されているほか、土産、会津漆器、陶器やコーヒーショップなど観光客用の店としても活用されている。生きた蔵の街だ。

 


会津うるしの店も蔵造り


地元の信用金庫

 


古い商品看板


ご当地スペシャル。野口英世の顔入りビール

 


池を配し、見事な蔵屋敷
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


のこぎりの目立てをするヤスリの看板。
ネクタイではありません


●喜多方ラーメン

昔から米や醤油・酒の名産地だった喜多方で、町おこしの一環としてはじまったのがラーメンだった。飯豊山の伏流水の恵みも手伝って「おいしいラーメン」として、上手に宣伝、マスコミに乗って一躍有名になった。町おこしは大成功、いまや120店舗以上のラーメン店があり、全国的にも有名になった。

 


ラーメン屋さんは老麺会を作っている


名物ラーメン(右)とチャーシュー麺

 

ちぢれた太い麺に醤油の濃厚な味のスープが特徴だそうだ。もちろん店によってそれぞれの特色を出した味自慢がある。ラーメンをハシゴ喰いする人もいるそうだが、一食一杯が普通だ。そこで、地元の人に尋ねるのが一番と、味にうるさそうな割烹料理店の女将に聞いた。
そこで「喜多方ラーメン御三家」という店を教えてくれた。東京に支店のある店を除き御三家という店の一軒へ。店の外には客があふれるほどの人気の店だった。


○大内宿へ


喜多方市から国道121号線を辿り、会津若松市を経て、田島方面へと向かう。ここは栃木県今市市へと続く会津西街道だ。この道は会津と日光、宇都宮を結ぶ、かつて北からの日光街道でもある。
山や谷のへりを縫うように走る道は結構交通量が多く、距離の割には時間がかかる。峡谷沿いに温泉ホテルや旅館がひしめくように建つ「芦の牧温泉」を過ぎ下郷トンネルを抜けると大内宿への表示板に従って右折。これより約10kmで大内宿だ。


●大内宿

会津と奥州街道を結ぶ“会津西街道”、また会津若松城と下野の国(栃木県今市市)を結ぶ街道は“下野街道”と呼ばれていた。これらは、江戸時代の初めには参勤交代や物資の輸送路として重要な道だった。
その街道の拠点の一つとして江戸時代初期の会津の初代藩主によって建てられたのが大内宿本陣である。当時の参勤交代は江戸まで5泊6日の行程で、行列は総勢約600人。そんなときの宿場町は大変な賑わいだったという。


本陣跡

 

天保元年(1644)から延宝8年(1680)までの36年間に21回の参勤交代が行われた。会津若松城下を出発した大名行列の旅人や馬方にとって、大内宿はほどよい休憩場でもあった。

 


茅葺き屋根の民家

明治に入り、国道121号線が開通すると、街道宿の役目も終わり、人々は蕎麦栽培などの畑仕事、山仕事などで生計を立てていた。だが、開発の手がこの山村にも届くころ、昭和56年(1981)地元などから町並み保存の運動がおこり、その努力が実を結び、「国の重要伝統的建造物群保存群」となった。
現在は約40軒の茅葺き屋根の民家が当時の姿ままに残され、街道沿いに軒を連ねている。

 

軒先いっぱいに民芸品店や蕎麦、地元で採れる農作物、食堂から民宿まで、すべてといっていいほどの民家が観光客相手の商売をしている。これら店の多くは家屋から通りにはみ出し、色とりどりのみやげ物などを並べ、まるで原宿の“竹下通り”のように賑やかだ。

 


廊下とその前はすっかり土産物。味消しです


家の中に店を作り、昔のたたずまいを
保つ家もあった

 


大内宿のそば畑


小泉前首相が訪れた時息子が撮ったという
写真を飾り、豆を売るお婆さん

 


湯殿山中腹からの大内宿。
街道沿いに家並みが続く
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

標高650mの山村集落大内宿の東の裏山「湯殿山」への急な階段を登ると、茅葺き屋根の連なる宿場町風景が一望できる。ここから眺めはまさに江戸時代へとタイムスリップしたかのようだ。

遠く山の裾野まで続く段々畑には、黄金色の稲穂が夕日に輝いていた。

 


喜多方郊外の秋


喜多方周囲は米どころでもある