旅で出会う  近・現代のいろいろ

世の中、いろいろなことがあります。天皇陵への道が、狭いことなどあり得ると思いますか?国宝の仏像を貸し出したら腕を折られちゃったー。正義の味方みたいに思っていた真田一族にも、とんでもない与太・領主がいた…。あるある。笑ったり.驚いたり。旅は限りない興味を与えてくれます。

①浸食された?天皇陵 ②静御前は海女チャン崩れ  ③絶景の後は釜揚げ  ④百済観音の腕

⑤神様、お河童さま
 ⑥残酷な群馬の水牢 ⑦義人・茂左衛門   ⑧カラスの材木

⑨魚のバトル
 
カラスの材木
 



「カラスさん。カラスさん。材木が落ちましたよ」
穂高・涸沢と思ってください。お忍びでご子息をお連れになった或る宮家の奥方の言葉です。カラスとはニックネーム。山小屋で働いているのか,遊んでいるのか、滅法、山には強く、体力も技術も抜きん出ている50代の男。朴訥だが,それが行きすぎて、「礼儀をわきまえない」などと陰口をたたく人もいた。そうした言葉が聞こえても、全く気にしないのがカラスの強みで“材木”の一件でも「おっ、材木が落ちたか」と笑いもせずに拾い上げたのは,手製のパイプ。胸のポケットに入れていたのが転げ落ちたのだ。

この方々は山好きで、お付き一人、ガイドを連れて、幼稚園の年齢のご子息も一緒だった。ある日、ご子息が「上に行きたい」と言い始めた。それを聞いた.カラスは「よし、俺と行こう」とたちまち準備を整えて、北穂沢を2人で登って行った。奥方はカラスとご子息が”上へ”登るのを承知されたので、誰も引き留めることは出来なかった。これだけでも“暴挙”の部類だ。付き添いは同行しない。登山の心得が無なかったのでやむをえないところ。時間は過ぎていき、山小屋の人達も,ちょっと心配になった。

 まさか北穂沢を上り詰め、涸沢槍、奥穂のコル、ザイテングラードを下ってくる涸沢のカールを取り囲む稜線を半周以上するつもりだったなどとは、誰も想像していなかった。ムリに持たせた無線で連絡したところ、2人は北穂から涸沢槍に向かっていて、奥穂小屋からザイテングラードを下ってくる、との返事だった。このコースは岩稜の連続で、そう易しくはない。カラスに任せたけれど、北穂までは行くまい、くらいに考えていたのが大間違い。北穂を通り過ぎて涸沢槍へと向かっているというのだ。昭和も半ばで週刊誌がくっついてくるわけではなし、無事の小屋へ戻ってくればそれで問題ない。ここまで来たらには無事を祈るしか無かった。

夕方になって無事戻ってきた。疲れ切ってはいたが、嬉しそうなご子息。カラスに様子を聞いてみると、あっさりとしたものだった。

「何度かか岩の間に落っこっったけど、引っ張り上げた。軽いからな」
「相手が誰だか分かってるの」
「行きたいと言うから連れて行ったまでよ。別に相手を見て決めたわけじゃ無い」

こんな調子で話は弾み、出来がちな“垣根”などは霧散していた。山好きだった宮家のご子息は,その後も涸沢を訪れたが、カラスがいれば嬉しそうに話していた。剛の者のカラスは、2019年だったか、自分の小屋を美ヶ原へ登る途中に作っているときに亡くなった。宮家のご子息も亡くなって仕舞った。もう“カラスの材木”を覚えている人もいない。
 
 
⑦義人・茂左衛門     真田一族の横暴


伊賀枡。沼田城主伊賀守は年貢の徴収に、大きな枡を使い、百姓の石高計量には小さな上げ底枡を使って利ざやを稼いだ。その枡は現在まで保存されている。(千日堂で)


 真田一族の子孫。悪徳沼田城主、真田信利(伊賀守)は。明暦3年(1657年)に城主になると、遊び放題、領民いじめは極限に達し、年貢取り立てには大きな枡、伊賀枡を使い、百姓が石高を申告するときには小さな枡を使わせた。しかも、無用な検地を行い、従来の田畑に加えて、荒れ地、疎林、河川敷なども“田畑”とし、3万石あまりの田畑を、検地によって14万石にまで“拡大”して申請。領民から搾り取った。後に幕府が検地を行うと六万石ほどしか無かったことが判明している。


領主の残虐さなどを伝える千日堂。茂左衛門処刑の地に近い。

さらに、年貢を納めきれない百姓を無情にも捕らえ、冬に水牢の刑を科している。男は首まで、女は約70㌢の水に入らせる。子供のいる女は子供を背負い、5,6人の袖に縄を通して水に入らせた。このため男女とも低体温症で、水牢の中で死亡する者も出たという。こうした事態に真庭村の名主、松井市兵衛が願書を持って訴訟のために出府したが、幕府目付に捕らえられ、故郷へ送り返されて1年の牢獄生活の後、天和元年に断首。農民たちは市兵衛塚として祀り、現在も市兵衛を忍ぶお堂が残る。

その後、月夜野の名主、茂左衛門は城主のあまりの横暴に直訴を決意。江戸へ上り、将軍に直訴状が届くよう工作した。帰京後隠密に捕らえられたが、幕府は処刑中止を命じた。しかし、その連絡が間に合わず、連絡に馬を飛ばした武士は自決。断罪は決行され、首は晒された。百姓たちは怒り、晒されていた首を持って逃亡。山中に埋葬して後に地蔵さんを作って、功績を讃えた。千日堂も領民が力を合わせて建立した。


しかし、城主の阿漕な政策は、自らの首を絞める。幕府は両国橋の掛け替えで、幾つかの藩に候補を絞り、沼田藩に橋普請の木材供給を命じた。ところが荒廃した領地の領民からは積極的な協力は無く、期限までに用材を納められず、幕府の怒りを買って改易。領地を失うこととなった。名将と言われた真田幸村を大叔父に持つ信利は、領民などから大きな搾取用の枡に“伊賀枡”の名を付け、現代に至るまでそれを展示し、悪徳領主をせせら笑っている。演劇や小説で名高い真田幸村も,一皮むけば、こんな恥知らずの係累がいたのだ。



 以下の絵は千日堂に展示されているもので、百姓にも分かりやすいよう、絵で状況を説明している。水牢、茂左衛門の直訴から処刑、さらされた首を盗み、山奥へ埋葬する様子などが描かれている。(この絵は千日堂管理者の承認を得て掲載しています)

     
伊賀守は第5代領主になるとやりたい放題。女を侍らせて毎夜の宴会。カネを集めるためには不要な検地で農地を水増し。百姓をいじめ抜いた。田畑の開墾ばかりか、木材の搬出まで、百姓を動員した。

 

年貢が納められないと、水牢の刑が待っていた。年貢を納める限界、11月の沼田藩は 冷える。氷も張るし、雪も降る。そこで水牢。低体温症で死ぬ者も出たが、伊賀守は頓着無し。さらに、行列の前を横切った子供を切り捨てる暴挙で、人心はすっかり離反してしまった。こんな世の中を「なんとかしないと…」と、直訴を試みた名主の市兵衛は、直訴はおろか村を出て間もなく役人に捕まり、ウムを言わせずに斬首されてしまった。

   
 
市兵衛に遅れること数ヶ月。茂左衛門は俎上の入った将軍宛の文箱を持って江戸へ。しかし、直接性分に届けることなど到底無理。そこで板橋の宿に文箱を置き忘れた形で宿を出た。宿の主人は茂左衛門が帰ってこず、置き忘れた将軍宛の立派な文箱に仰天。上野・輪王寺へ相談に持参した。五代将軍綱吉と近い関係にあることを承知していたからだった。将軍は訴状を読み、沼田藩の実情を知った。



その頃、故郷の月夜野へ戻った茂左衛門は、藩の隠密に追われ、捕縛された。これを知った幕府の役人は「処刑はならぬ」の伝令を走らせたが、約半日違いで茂左衛門は処刑されてしまった。伝令の役人は、申し開きが出来ない、と割腹自殺して詫びた。

   


茂左右衛門の首を葬り、地蔵さんを立てた。細い峠道の中程にあった。

処刑後、茂左衛門はさらし首となったが、村人は「あまりに気の毒」と首を盗み、追う役人をたたき伏せて山中に向かった。まず首塚を作り、後には地蔵さんを建てて茂左衛門を忍んだ。将軍への直訴状の筆を執った和尚は、首までの穴に入れられ、石を詰め込まれる残酷な刑で殺されている。

 

茂左衛門は訴状jが将軍・綱吉の目に触れる幸運をつかんだが、帰郷したときから隠密に追われ、捕まったのは自宅のある月夜野の近く。お堂を建てて追悼している(写真左)。市兵衛も小さいながら義人塚があり、お堂(写真右)を建てて忍んでいる。義人塚は全国のあちこちにあり、領主の善し悪しに依り、領民の暮らしが大きく左右されたことが分かる。中でも沼田藩の真田伊賀守は横暴おぉ度合いが凄まじく、冬の水牢などは全国的にも希有で、群馬県でも吾妻の一部、真田支配の地域にしか残っていないという。農民残酷史の一コマと言える。
 
 
6 残酷なり    群馬の水牢

 
桃瀬の水牢跡

水牢ー。あまり聞かないが、群馬県の吾妻東部、主として沼田藩で行われていた年貢を取り立てるための一種の“水責めの刑”で、残酷なものだったとされる。中之条町教育委員会によると、記録には12㍍四方に粗䒳(そだ)を筵のように組み、木戸を設けて石垣で固めた池が用意されていた。残っている水牢跡は8カ所。桃瀬の水牢が最も良く原型を留めていると言う。



年貢を納められない百姓は水牢で苦しめられた

戦国の名将で知られる真田幸村は関ヶ原で西軍が敗れたあと、九度山に籠もったり、豊臣最期の戦で家康を苦しめたり、戦国のヒーローとして今日まで人気の武将だが、真田本家(上田)、真田の支配する沼田藩はどうも時代小説なみには行かなかったようだ。幸村自身は直接関係ないが、本家争いがあったり、沼田藩を任された信直は寛文年(1662年)沼田藩の検地を強行。実質石高3万~6万石と言われていたのに、幕府へは14万6000石と過大申告した。農民から搾り取るためで、升も沼田藩が農民の米を量るものは、規程より遙かに大きかった。

或る意味で名将・幸村の親族には、阿漕な農民虐めがいたわけだが、こう言う話しは時代物などには登場しない。しかし、過大申告のツケは間もなく回ってきた。両国橋の掛け替えのため、幕府は沼田藩に用材の調達を命じた。百姓虐めで評判は最悪の沼田藩は、領民の協力を得られず、納期に間に合わなかったため改易となって、沼田藩は幕府領になって仕舞った。

沼田藩の行った水牢での刑は酷いもので、男は褌一本の裸で首まで水に浸かる。女は約70㌢ほどの水に、単衣の袖に縄を通し、数人まとめて水に入れられた。子供のいる女はおぶって水に入ることになっていたという。年貢を納められないとがめを負うので、季節は初冬、時には冬に刑が実施された。そのため低体温症となり命を落とす者も出た。こんな様子に領民は同情。明日は我が身の切羽詰まった状況のなかで、無い米をお互いが融通し合って何とか年貢を納めたとされる。

この年貢問題にからみ、自らの命を投げ出して領民を助けた庄屋の話しもある.
名将・幸村の活躍は
“伝説”であっても問題は無いが、直系でないしても、一族の横暴を歴史から消し去ってはならない。
 
⑤ご本尊は   「おかっぱ様」 



 仙台北方を走行している時、道路脇に「おかっぱ様」と書かれた立て看板を見つけ、立ち寄ってみました。赤い鳥居があり、境内はがらんとしていましたが、本殿の周囲は古木などがあり、それなりの雰囲気でした。目を引いたのは川童の彫刻や線画など。由緒書きには「日本で唯一、川童をご神体として祀っている」という下りがありました。



岩手県の遠野には川童の住むという言い伝えのある小川と祠がありますが、川童神社やご神体ではありません。1900年代の終わり頃、共和国を勝手に名乗って面白がることが流行しましたが、その時川童共和国とかが出現しました。しかし、これは面白がりの分野のようで、宗教や信仰、昔語りなどとは無関係のようでした。

 

 

川童100面相、とでも言いたいように、様々な表情、格好をした川童が境内のあちこちにあり、見て回っていて飽きることが無い。



「おかっぱ様」は水難よけ、縁結び、安産など、様々な神徳があるそうだ。奉納された額には、踊る川童、一杯やっている川童が描かれている。



ご神体は川童。木彫りだという。宮司も不在で拝顔?する事は出来なかった。

由緒書きを読むと坂上田村麻呂が東征の折り、水先案内を務めた東右衛門という男は、激流の川を達者に泳ぎ、田村麻呂を助けたという。この功績により東右衛門は田村麻呂から「川童の姓と土地を与える」と言われた。彼の没後、子孫は「川童明神」の祠を建て、先祖の功績を讃えたという。以来、この宮の宮司は代々「川童」の姓を名乗り、現代にまで受け継がれているとされる。

神社創建は延暦22年(803年)とされ、坂上田村麻呂の勧請によると伝えられる。

②静御前は  海女チャン崩れ?

 〇…平安時代から鎌倉へー。政権が平家から源氏へと移動する激動の時、悲劇のヒーローがいた。ご存じの源義経。幼年時代に兄の頼朝と共に平氏に捕らえられ、危うく命を落とすところだったが、兄は伊豆の蛭が島へ流され、義経は鞍馬山に預けられた。

 〇…成長して義経は平家を討ち滅ぼしたが、梶原景時の讒言で頼朝の怒りを買い、追われる身になってしまった。弁慶らと共に平泉へと逃れたが、執拗な頼朝によって、軍を送り込まれ、衣川で敗れ去った。悲劇のヒーローとして芝居や物語で同乗を買い、人気を博して義経伝説は膨らみ続けた。

 〇…義経が京都で愛妾としていたのが静御前だった。彼女の生誕地を知ったのは偶然だった。丹後半島を北回りで舟屋へと向かっていたとき、小さな漁村で「静御前生誕地」の看板を見つけた。美女として名高い静御前とは裏腹の寂しい小さな漁村だった。

 〇…磯という集落で県道に車を駐め、細い道をたどると、生誕地の石碑のある広くはない屋敷跡に出た。石垣が積まれ、そのすぐ下は海。「しずかごせん誕生の地」と書かれた石碑と由来の記された表示があった。

 〇…『静は磯で生を受けた。父は磯野善次、磯の衆と呼ばれる海士の一族だった。静の幼名は静尾。七歳で父を失い、母に連れられて都へ上った。母は白拍子として名を挙げ、静も指折りの白拍子へと育った。義経に見初められ愛妾となるが、義経は頼朝に追われる身となり、離ればなれとなる
(義経記では衣川まで同行。義経とともに死去)。静は一旦鎌倉へ下ったが、義経との間に出来た生まれたばかりの男児を由比ヶ浜で殺され、傷心の中で磯へ帰った。ちかくの三ツ塚法城で草庵を結び、海士として過ごしたという説と共に、出生地の磯の実家跡に家を作り、母と共に余生を送ったとの説もある。今も磯の屋敷跡のすぐ下の海岸は「尼さんの下」と呼ばれている。

○‥義経と静、子供の消息ははっきり分からない。子供は由比ヶ浜で殺されたと言う説と衣川で義経・静が自決した時に道連れとなったとかかれているのは義経記。その義経は青森の三厩から北海道へ渡ったとする伝説があり、三厩には祈念の石碑やウマをつないだという岩穴もある。北海道には義経神社もあるし、ロシアへ渡ったと言う小説まである。



 
〇…下北半島の三厩に義経と共に静の石碑があり=写真・上=、三厩で船に乗り、北海道へ渡ったと書いてあった。いずれにしても、静御前の生誕地と言うところは初めて出会った。父が急死しなければ、母が京へ上って白拍子になることもなかったろうし、静は海女チャンへの道を歩んだかも知れない。ふと出会った生誕地の表示に、様々な空想が浮かび、訪れたゆかりの地、などが想い出されるのだった。ちなみに、義経と静の墓は淡路島にもある。

 

①浸食された?天皇陵



 古都・奈良の寺巡りに行ってきました。日程が短いので巡る寺の数を減らして、なるべく時間を取るようにしたのです。オヤっと思った。奈良のJR駅前から延びる繁華街の宿の窓から外を見ると、なんだか宮内庁の管理する陵墓か遺跡のような山と鳥居が見えました。窓のすぐ下には綺麗に整備された参道が有り、向こう側の壁との間は10㍍ほどでしょうか。立派な陵墓なのに、土地の有り余っていた奈良時代に、狭い参道などはあり得ません。戦後のどさくさ紛れに、参道の幅は浸食され、狭くなってしまったのだろうと推測出来ます。

 東大寺の大仏殿などで、ゆっくりしていたので、宿の部屋に入ったのは夕方。鳥居の見えた丘に行って見るのは翌日にしました。宿の玄関からすぐ横に、参道が有り、宮内庁の屋根付きの掲示板というか、施設の説明というか、それを見ると「開化天皇陵とありました。やはり天皇の御陵か、と鳥居の前で参拝しました
=写真=。開化天皇は紀元前158年から前98年までの間、天皇位についておられたのです。神武天皇を初代とすると、開化天皇は9代目です。神話の時代を抜け出る前の時代です。

開花天皇は崇神天皇の父で、崇神天皇の宮がそれまでの宮が集中していた畝部山周辺から北へ離れている古都から、三輪王朝の成立をより遡る説もあります。ここではそういうことではなく、天皇陵への参道が、思いのほか狭いことが木になったのです。今更大昔の状況に戻すことなど不可能。寮母は誠に立派ですが、それに似合わない参道だったと言うことに留めておきます。

 
②静御前は  海女チャン崩れ?

 〇…平安時代から鎌倉へー。政権が平家から源氏へと移動する激動の時、悲劇のヒーローがいた。ご存じの源義経。幼年時代に兄の頼朝と共に平氏に捕らえられ、危うく命を落とすところだったが、兄は伊豆の蛭が島へ流され、義経は鞍馬山に預けられた。

 〇…成長して義経は平家を討ち滅ぼしたが、梶原景時の讒言で頼朝の怒りを買い、追われる身になってしまった。弁慶らと共に平泉へと逃れたが、執拗な頼朝によって、軍を送り込まれ、衣川で敗れ去った。悲劇のヒーローとして芝居や物語で同乗を買い、人気を博して義経伝説は膨らみ続けた。

 〇…義経が京都で愛妾としていたのが静御前だった。彼女の生誕地を知ったのは偶然だった。丹後半島を北回りで舟屋へと向かっていたとき、小さな漁村で「静御前生誕地」の看板を見つけた。美女として名高い静御前とは裏腹の寂しい小さな漁村だった。

 〇…磯という集落で県道に車を駐め、細い道をたどると、生誕地の石碑のある広くはない屋敷跡に出た。石垣が積まれ、そのすぐ下は海。「しずかごせん誕生の地」と書かれた石碑と由来の記された表示があった。

 〇…『静は磯で生を受けた。父は磯野善次、磯の衆と呼ばれる海士の一族だった。静の幼名は静尾。七歳で父を失い、母に連れられて都へ上った。母は白拍子として名を挙げ、静も指折りの白拍子へと育った。義経に見初められ愛妾となるが、義経は頼朝に追われる身となり、離ればなれとなる
(義経記では衣川まで同行。義経とともに死去)。静は一旦鎌倉へ下ったが、義経との間に出来た生まれたばかりの男児を由比ヶ浜で殺され、傷心の中で磯へ帰った。ちかくの三ツ塚法城で草庵を結び、海士として過ごしたという説と共に、出生地の磯の実家跡に家を作り、母と共に余生を送ったとの説もある。今も磯の屋敷跡のすぐ下の海岸は「尼さんの下」と呼ばれている。

○‥義経と静、子供の消息ははっきり分からない。子供は由比ヶ浜で殺されたと言う説と衣川で義経・静が自決した時に道連れとなったとかかれているのは義経記。その義経は青森の三厩から北海道へ渡ったとする伝説があり、三厩には祈念の石碑やウマをつないだという岩穴もある。北海道には義経神社もあるし、ロシアへ渡ったと言う小説まである。



 
〇…下北半島の三厩に義経と共に静の石碑があり=写真・上=、三厩で船に乗り、北海道へ渡ったと書いてあった。いずれにしても、静御前の生誕地と言うところは初めて出会った。父が急死しなければ、母が京へ上って白拍子になることもなかったろうし、静は海女チャンへの道を歩んだかも知れない。ふと出会った生誕地の表示に、様々な空想が浮かび、訪れたゆかりの地、などが想い出されるのだった。

 
③五右衛門、油揚げ


五右衛門の処刑。一子・五郎市とともに煮えたぎる油の釜で(絵・豊国)

 世紀の大泥棒、石川五右衛門は安土桃山時代に出没。今風の四文字述語で言うと“一世風靡”と言うべきだろうか。京都を中心に我が物顔で手下と共に荒らし回り、あの豊臣秀吉を烈火のごとく怒らせた。

「何としてでも捕らえろ」

厳命が下り秀吉手勢は総掛かりで探し回り、ついに捕獲して、京の街を引き回し。親族まで引っ捕らえ、三条川原で処刑した。時に五右衛門36歳(弘治4年=1558年~文禄3年=1594年)だった。五右衛門は広く“釜茹で”されたと伝えられているが、どうやらそれは、釜を使ったので単に茹でられたと思われたのだろう。公家が残した記録では「盗人、スリ10人、もう一人は釜で煎られる。同類19人は磔」とある。公式文書は残っていないようだが、処刑を目撃した宣教師のメモなどから、五右衛門とその一味、さらに母親、家族、子供まで処刑されたのは間違いないとされる。しかも、生き残ったり暴れ出すのを防ぎ“完全に”殺すために、油を加えて”煎り殺し”だったとも言われる。

一子・五郎市とともに釜に入れられ、蓋で閉ざされた。しかし、釜の下で薪が燃え、油混じりの“湯”が熱した頃、重しの載った蓋が大声と共に動いた。
「五郎市を助けようと五右衛門が最期の力を振り絞って蓋を突き上げた」

そんな話しも伝わっている。上の絵はその様子を誇張して描いたものとみられる。

伝説の五右衛門は伊賀流忍者の百池三太夫の弟子と言われてもいる。出生地も様々で、伊賀、遠江、河内、丹後などがあり、丹後では豪族・石川氏につながるとも言われる。石川氏は秀吉の謀略により、細川藤孝に謀殺されて滅びたが、落城の際に石川左衛門尉秀門の次男、五良右衛門が落ち延び、後に五右衛門と改名した説がある。秀吉に滅ぼされた恨みを晴らすために、大盗賊となって秀吉が統治する街を荒らし回ったとも言われる。丹後国・伊久知城周辺では、五右衛門の姉の子孫が代々、現代に至るまで生き残っているとされる。

京・南山寺の三門に上り


「絶景かな」

自らの勢力を誇り、京の都を“我が物顔”で荒らし回り、闊歩した五右衛門だった。


 

④百済観音   腕・折れちゃった



 気になったのは法隆寺の百済観音です。どこで誰が作ったかが不明なようですが、国宝に指定されています。作った人はいろいろな説があり、論争は明治以来、続いているようです。昔は虚空蔵観音と呼んでいたそうですが、学者が「百済の影響を受けているから、百済観音だ」と言い張り、そういう呼び名に法隆寺も乗っかったようです。百済は朝鮮半島にありました。「何でも自分のところが一番」と、主張する韓国の観光客が、この名前に拘り「この仏像は韓国で作られたものだ」と、主張したそうです。もちろん根拠などありません。例によってわめき立て、韓国では学者やマスコミまでそういうことには根拠も無しに同調するのです。

 我々を案内してくれたボランティアガイドのお爺さんは「材料を知っただけで分かるはず。日本にしか生えていない楠を削っている、韓国製というのは、いかがなものかですが、本人達はすっかり韓国製と思い込んでいて、丁寧にそうではないことをが分かる証拠を挙げても理解出来ない様子でした」と呆れていました。南米原産の唐辛子を「韓国原産」と言って笑われたり、六分儀を韓国がオリジナル」と大真面目で言ったり、どういう神経をしているのでしょうか。

それにしても、国宝の百済観音は、左腕が傷ついています。
 「どうして折れているんですか」と聞いたら、ガイドは「当時の橋本龍太郎首相とフランスのシラク大統領のトップ会談が日本とフランスの交流会に絡んで行われ、百済観音を見たシラク大統領が強く百済観音をパリで展示したいと要請したようです。その結果、やむを得ず法隆寺は貸し出すことにしたのです」と言います。


 ところが、ルーブルへ展示された木像には、もっての外の強いライトが当てられた。ライトを当てただけではなく、担当者の不始末で「腕に傷が付いた」という結果になってしまった。傷が付いたと言うことは、当時の新聞が報じています。



 
いずれにしても、木像に強い光を当てるなど論外。日本の国宝の腕を折るなどと言う扱いは、これもまた論外。文化程度の高さを誇るフランスのルーブルでさえ、木像の扱いを知らない“無知ぶり”をさらけ出したのです。本当なら日本の関係者は、怒り狂うのが当然だし、強いライトを当てての展示はやめさせるべきなのでしょうが、そういうことが起こった様子はありません。日本の在フランス大使館の文化担当者は、展示された国宝の様子を見も行かなかったのでしょうか。

 石の文化と木の文化の違いを、フランスの美術関係者は全く知らなかったから、強いライトを当てて、綺麗に見せるのがいいことだと思ったのでしょうか。偉そうにしていますがフランス人の文化程度はこの程度なのでしょう。 法隆寺で百済観音を見る機会があれば、右腕の肘の部分をよく見てください。いかにも不自然な形をしています
 。